- #1
- #2
マスクの窓から野球を見ればBACK NUMBER
スタンドでは「ビールなんか飲んでる場合じゃないだろ!」ベテラン記者が振り返る長嶋茂雄“引退試合”リアル回想録「厳粛というか…妙に静かで」
text by

安倍昌彦Masahiko Abe
photograph byJIJI PRESS
posted2025/06/13 11:01
1974年10月14日に行われた「ミスタープロ野球」長嶋茂雄の引退試合。当日、現地は異様な雰囲気に包まれていたという
秋の陽が沈んで、すっかり暗くなった後楽園球場。
万雷の拍手……カクテル光線が消された中で、一条のスポットライトが脱帽したユニフォーム姿の長嶋茂男選手に当たる。
「ビールなんか飲んでる場合じゃないだろっ!」
「わたくしは今日、引退をいたしますが……」
ADVERTISEMENT
引退のあいさつが始まる。そのときだ。1列前の席に座っていたお客さんが、こっちを振り向いて、
「おい、ビール」
遠慮がちに声がかかった。注文されたら、売らないわけにはいかない。ポーンととびきりいい音させてビール瓶の栓を抜くと、ココココ……と紙コップに琥珀色のキリンを流し込んで、「はい、どうぞ」と渡した瞬間、後ろのほうから声が飛んだ。
「バカヤロウ! ビールなんか飲んでる場合じゃないだろっ!」
ほとんど涙声のような、絶叫だった。
お客さん、背中を丸めるように小さくなると、両手で紙コップを握って、まるで熱いものでもすするようにして、ビールを口の中に注ぎ込んでいた。筋金入りの巨人ファン、長嶋ファンが埋め尽くしたこの日の一塁側スタンド。「長嶋茂雄」への感謝と、敬意と、祝福の思いでパンパンになっていた。
幼い頃からの熱烈なサンケイ、ヤクルトファンとして、さんざん痛い目にあってきて大嫌いだった長嶋選手が、初めて素敵に思えた日。
「わが巨人軍は、永久に不滅です!」
ちょうど、ななめ後ろから見えていた長嶋選手のスポーツ刈りの首すじが「男だなぁ」と思えた。
ビール売りの半そでのユニフォームの二の腕にビッシリ鳥肌が立ったのは、秋の夕刻の寒さのせいばかりじゃなかった。

