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「松井が寝てるとマンションまで呼びに…」長嶋茂雄は“遅刻する松井秀喜”を待った…なぜ怒らなかったのか? 2人の師弟関係「ベンチで目も合わせない感じ」
text by

中村計Kei Nakamura
photograph bySankei Shimbun
posted2025/06/05 06:00
長嶋茂雄の訃報を聞き、アメリカから緊急帰国した松井秀喜。“監督と選手”を超えた2人の関係
1992年11月21日――。長嶋は監督復帰後、最初のドラフト会議において、自らの手で4球団競合となった松井の当たりクジを引き当てた。自分が引退した年に生を受けた未来のスーパースター候補を、直接育てるチャンスを得たのだ。
そして長嶋は大々的に「4番1000日構想」を打ち上げた。小俣が補足する。
「長嶋さんには日本の4番バッターに育てたいという思いがあった。そういうスケールの大きなバッターは久しく出てなかったからね」
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ただ、そうして一大キャンペーンを張った割には、当初、長嶋は松井と一定の距離を保っていた。長嶋の愛弟子のひとりで打撃コーチを務めていた中畑清に松井の指導は任せ、その中畑にも最初は「アドバイスはするな」と厳命している。
ところが松井のオープン戦の結果は惨憺たるものだった。20試合に出場し、53打数5安打。打率は.094と低迷し、期待の本塁打は0本に終わった。中畑が回想する。
「オープン戦が残り5、6試合になったぐらいだったかな、監督に『開幕一軍はもう無理だから、ボチボチ(指導しても)いいだろう』と言われました」
松井に対して最初にマンツーマン指導の役を担っていたのは中畑だった。中畑は長嶋の指導許可が下りるとすぐに松井を自宅へ呼び、連日のように地下室で素振りをさせた。
「俺が運転する車で連れて行ったんだけど、松井は助手席に座るなり高いびきをかいてた。大物だよね(笑)。長嶋さんはそういうふてぶてしさというか、落ち着き払ったところにも魅力を感じていたんだと思うよ。バッターのタイプ的には全然違うんだけどね。長嶋さんは器用だったけど、松井は頭も体も固かったから」


