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「3年連続200イニング15勝以上」“トレンディエース”時代を切り開いた西崎幸広が10年後再戦した阿波野秀幸にかけた言葉「もうちょっと頑張ろうか」
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元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph byTakahiro Kohara(L)/Makoto Kemmisaki(R)
posted2025/04/30 11:03
スーパールーキーとして新人王を争った西崎と阿波野。10年後、それぞれ違うユニフォームをまとって日本シリーズで再戦した
「毎日毎日、試合で投げるための準備をするということがどれだけ大変なのかがわかりました。展開を見ながら用意しなければいけない。『今日はもう出番がないな』と思っても、前のピッチャーが突然崩れることもある」
濃密な現役時代を駆け抜けたふたりの「スーパールーキー」
年齢を重ねるごとに故障は増えていき、当然、調整方法は変わった。
「西武に移籍してからは自分の体のことばかり考えていました。言ってみれば、自分がライバル(笑)。1年1年が勝負でしたね。『もう1年だけ頑張ろう』と。
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ベテランになればなるほど練習量が増えるんです。若い時と同じやり方では体が動かない。どうしても準備時間が必要になりますね。自分の体と相談しながらコンディションを整えていました」
阿波野が引退したのは2000年のシーズン後。西崎はその1年後にユニフォームを脱いだ。プロ15年間で通算127勝102敗22セーブ、防御率3.25という成績を残して。
1980年代後半に“トレンディエース”と騒がれた阿波野と西崎。彼らのプロ野球人生の後半は故障との戦いでもあった。他球団に移籍しリリーフ投手になってから、それまで感じることのなかったピッチングの深みに気づいたという共通点もある。
ふたりのスーパールーキーが、それぞれ14年、15年という実働年数以上に濃い時間を過ごしたことは間違いない。
決め球誕生秘話
最後に、阿波野がマネできなかったという西崎のスライダーの誕生秘話を聞こう。
「ある日、野球部員で遊びの試合をやろうぜという話になりました。それぞれ自分のポジションとは違うところを守って。オレがいつも通り投げようとしたら『本気で投げたらダメ』と言われて、サイドスローで投げてみたんです。
その時にカーブを投げたらものすごく曲がってね。みんなが空振りするから面白くて、オーバースローのままでいろいろ工夫しているうちにあのスライダーが生まれた。もちろん、独学ですよ」
遊びの中で覚えたスライダーのおかげで、西崎は過酷な15年間を戦い抜くことができたのだ。
〈阿波野秀幸編も公開中/はじめから読む〉


