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「3年連続200イニング15勝以上」“トレンディエース”時代を切り開いた西崎幸広が10年後再戦した阿波野秀幸にかけた言葉「もうちょっと頑張ろうか」
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元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph byTakahiro Kohara(L)/Makoto Kemmisaki(R)
posted2025/04/30 11:03

スーパールーキーとして新人王を争った西崎と阿波野。10年後、それぞれ違うユニフォームをまとって日本シリーズで再戦した
移籍して日本シリーズで阿波野と再戦
入団から10年あまり、先発投手としてマウンドに上がってきた西崎に転機が訪れた。通算100勝を達成した西崎は1997年オフに移籍を決意する。東尾修監督に請われて西武のユニフォームに袖を通した。
「日本ハムでいろいろあって、東尾さんにお世話になることに決めました。1998年のシーズン中は故障のために満足に働けなかったんだけど、日本シリーズで抑えを任されました」
対戦相手である横浜ベイスターズには阿波野がいた。第4戦でふたりの元エースがマウンドに上がった。
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「そう、あの時、ヒデは横浜にいたんですよね。同じ試合で投げたということには運命的なものを感じました。彼が中継ぎになったり、投球フォームをサイド気味にしたりしていることは知っていました。
ヒデは横浜出身で、もともと横浜に入りたいと言っていたから、そのチームでプレーできてよかったなと思いました。『もうちょっと頑張ろう』と言い合った記憶があります」
リリーフの苦労を知った現役後半
1999年、故障の癒えた西崎はリリーフエースとして2勝1敗20セーブ、防御率3.41という成績を残した。
「ローテーション投手として中5日くらいで投げるというのも大変。エースは9回を投げ切らないといけないと思っていたから。もし、おかしなピッチングをしたら『この1週間、何をやってたんだ!』とコーチや先輩から怒られるし」
エースにはエースの、リリーフ投手にはリリーフ投手の苦労がある。西崎は30代になってから初めてそれを知ることになった。