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「今日も生きててよかった…」という猛練習の阿波野秀幸と「けっこう自由」西崎幸広…“信じられない”学生時代の出会いから「伝説の新人王争い」へ
posted2025/04/29 17:02

大学野球でも最も厳しいとも言われる亜細亜大でプロをめざした阿波野秀幸が大学日本代表で出会った西崎幸広に受けた衝撃とは…
text by

元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph by
Takahiro Kohara
荒木大輔と同学年で
1980年夏の甲子園、荒木大輔という早稲田実業の1年生投手が決勝まで勝ち上がった夏、同じ16歳の阿波野秀幸は遠い場所にいた。
「彼はリトルリーグ時代から有名選手で、高1でもう別次元の人。同じ学年の選手とは思えませんでした」と横浜市立桜丘高校のサウスポーだった阿波野は笑う。
「1年生であれだけのピッチングができるのかという衝撃を受けました。近づきたいとか勝ちたいとか、対戦したいという発想にもならないくらいの存在でした」
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阿波野はその夏、早稲田実業を破って日本一になった横浜高校の選手たちを間近で見る機会があった。
「夏の甲子園が終わったあとにオール神奈川が結成されて、韓国や台湾などと親善試合をするための練習をしていました。愛甲猛さんなど優勝メンバーがいました。僕の高校は練習場所である保土ケ谷球場の近くにあったので、手伝いをした記憶があります」
甲子園など想像もできなかった
当時の阿波野には、甲子園に出場することなど想像もできなかった。
「もともと東海大相模や横浜のファンだったんですけど、自分が高校野球に関わるようになって、横浜のすごさを痛感しました。僕の高校は公立の中では強いほうではありましたけど、組み合わせによって県で上位に行けるかもというくらいで。勝ち上がっても最後は強豪私立校に敗れるというチームでした」
阿波野は甲子園を目指したものの、神奈川を勝ち抜くことはできなかった。しかし、その実力が認められて東都大学リーグの強豪、亜細亜大学に進むことになる。
「戦国東都」と言われる実力伯仲のリーグで優勝を目指す亜細亜は、大学球界でも一、二を争うほど厳しい野球部だと言われていた。練習はもちろん、寮生活も。
そこで、阿波野の野球人生が動き始めた。