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「日本ハムってどこにある球団?」社会人内定していた西崎幸広“まさかのドラフト1位”が「できて5勝」の評価から阿波野秀幸と新人王争いできたわけ

posted2025/04/30 11:02

 
「日本ハムってどこにある球団?」社会人内定していた西崎幸広“まさかのドラフト1位”が「できて5勝」の評価から阿波野秀幸と新人王争いできたわけ<Number Web> photograph by Kazuhito Yamada

社会人野球チームに内定して会社の席まで決まっていたという西崎幸広。プロで再会した阿波野秀幸と新人王争いを繰り広げることに

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元永知宏

元永知宏Tomohiro Motonaga

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Kazuhito Yamada

プロ野球史上には、驚くような成績を残した「スーパールーキー」が数多くいる。だが、これほどまでに拮抗した、同タイプの凄まじい新人ふたりが同一リーグに現れたのは、1987年が最初で最後だろう。阿波野秀幸と西崎幸広——。史上最高の新人王争いを、阿波野に続いて西崎幸広に振り返ってもらった。〈NumberWeb特集「スーパールーキー伝説/阿波野と西崎」:全5回/西崎幸広編・つづきを読む

 早稲田実業の1年生投手・荒木大輔が“大ちゃんフィーバー”を起こした1980年夏、西崎幸広は甲子園のスタンドにいた。準決勝で早稲田実業に敗れた瀬田工業の1年生だった。

東京六大学は断って地元の近くに進学

 3年春のセンバツで甲子園のマウンドに立った西崎には、いくつかの大学野球部から勧誘の声がかかった。その中には東京六大学の強豪も含まれていたが、全国の高校球児が憧れる神宮球場でのプレーは望まなかった。西崎は言う。

「東京六大学のある大学のセレクションを受けるかと言われたんですけど、断りました。関西の大学からも誘われましたが、ちょっと違うなと。名古屋にある大学なら地元の滋賀から車で1時間くらいだからいいかなと思って、愛知工業大学に進むと決めました」

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 1983年4月、西崎は愛知大学野球連盟の愛知工業大学に進んだ。

「1年生の時は先輩が怖いなと思いました。寮生活だったし、上下関係もあって説教を受けることもありました。時には、みんなで正座させられましたよ」

「けっこう自由」だった大学時代

 その頃、有望選手を第二部(夜間)に入学させ、野球部を強化しようという方針があった。

「僕らの学年から二部の野球部員が増えました。一部の上級生は授業が終わったあとの16時からの練習。僕たち二部の下級生は13時から練習を始めて17時で終わってから授業に出る。だから、先輩に気を遣うのは16時~17時までの1時間だけ。ピリピリしてはいましたけど、けっこう自由でした」

 亜細亜大学で「一日を乗り越えるので必死だった」阿波野秀幸とはまったく違う4年間を送ることになった。

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