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「3年連続200イニング15勝以上」“トレンディエース”時代を切り開いた西崎幸広が10年後再戦した阿波野秀幸にかけた言葉「もうちょっと頑張ろうか」
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元永知宏Tomohiro Motonaga
photograph byTakahiro Kohara(L)/Makoto Kemmisaki(R)
posted2025/04/30 11:03

スーパールーキーとして新人王を争った西崎と阿波野。10年後、それぞれ違うユニフォームをまとって日本シリーズで再戦した
「1980年代はピッチャー陣の分業が今のようには進んでいませんでした。先発ローテーションに入らないと自分の力を発揮することはできない。どうしても調整が難しくなりますから。だから、ローテーションに入るためにどうすればいいかを考えました」
キャンプがもうしんどくて(笑)
阿波野と違って、プロでの活躍を目指して鍛錬を続けてきたわけではない。体力的な不安もあった。
「それにオレはもともと練習が好きじゃなかった。春季キャンプがもうしんどくて(笑)。でも、先輩から『ローテーションに入れば楽になるよ』と言われました。ローテーションに入ってからは自分なりの練習方法を認めてもらってやりやすくなりました。もしガチガチに管理される球団だったら、難しかったでしょうね」
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1年目の投球回数は221回と3分の1、2年目は241回と3分の2、3年目も208回も投げた。もう細身のエースの実力を疑う者はいなかった。
9回、最後のバッターを打ち取るのが一番気持ちいい
「阿波野は大学時代の蓄積があったから、プロでもすぐに活躍できたんでしょう。オレはヒデと違って大学では自由に野球をやってきた。それなのに、どうしてあれだけ投げて、勝てたのか? それは『投げることが当たり前』だと思っていたから。先発としてマウンドに上がったら、9回を投げ切るのが当たり前。交代させられるのも嫌だし、途中で投げ出したくない」
だから、大量リードを奪った試合でも、降板して休むより、最後までマウンドにいることを望んだ。
「9回の最後のバッターを打ち取る瞬間が一番気持ちいい。その時にマウンドにいるのが最高。最後を誰かに任せたくなかった」
西崎も、阿波野と同じように、打倒・西武ライオンズを目指して腕を磨いた。
「あの頃の西武はめちゃめちゃ強かったですよ。正直言って、投げたくなかった。誰がというよりも、打線がすごかったですね。息を抜くところがどこにもないんですよ。クリーンアップの前には、絶対にランナーを出したくない。
ある先輩が契約更改の時に『西武戦とそれ以外の1勝は同じ価値ですか』と球団の人に聞いたと言います。チームのエースはどうしたって、西武相手に投げないといけない。その負担はほかのチームと対戦する時よりも大きいのは間違いない。そういう交渉をしてひと悶着あったことを覚えています。でも、オレがその立場になった時には同じことを考えました」