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ぶら野球BACK NUMBER
球界OBが猛批判「残念ですね」「落合に3億円の値打ちない」張本勲もバッサリ…落合博満40歳のFA移籍、じつは巨人関係者もみんな“冷たかった”
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byJIJI PRESS
posted2024/10/08 11:01
1993年12月、年俸約4億円の2年契約で巨人入団を発表した落合博満(当時40歳)
一方でこのとき、問題になったのは背番号である。和歌山県太地町にオープンする落合博満野球記念館のロゴや六角形の建物は「6」にちなんだもので、プロ入り時から背負ってきた「6」に当然愛着はある。だが、巨人の背番号6はベテランの篠塚和典が長年にわたりつけている。1986年にはロッテ時代の落合との複数トレード報道で名前が挙がり、「6を他人に譲るときはユニフォームを脱ぐとき」と公言する篠塚にも、プライドがあった。
ミスター自身が永久欠番の3番を譲ってでも……という報道もあったが、12月13日、長嶋監督と信子夫人の深夜の電話会談により、球団創立60周年の第60代四番打者ということで、「60」に決定する。
同年オフに、信子夫人のエッセー本のタイトルでもある「悪妻は夫をのばす」がユーキャン新語・流行語大賞の年間傑作語録賞を受賞。新語部門銅賞に「FA(フリーエージェント)」が選ばれた。オレ流の野球人生の岐路には、いつだって妻の後押しがあった。
なお、信子夫人の父親は巨人ファンで生前、実家に挨拶へ来た落合に対して、「駄目だ、駄目だ、巨人じゃなきゃ」と娘へのプロポーズを一度は断るほどだったという。いわば、落合家にとっても大願成就である。
周囲の反応は冷ややかなものだった。新しい同僚のほとんど誰からも歓迎されず、味方であるはずの球団OBからも、総攻撃を受けたのだ。
だが、皮肉にも、これにより名古屋の居心地の良さの中で、スポイルされ消えかかっていた落合の反骨の魂に再び火がついた。埃っぽい東芝府中のグラウンドや、客のほとんどいないロッテの二軍戦で、「今に見てろよ、お前ら」と汗と泥にまみれたあの頃と同じように、40歳の四番打者は、まず他球団ではなく、自チームに対して、己の力を証明する必要があった。
1993年12月21日、入団発表が行なわれた新高輪プリンスホテル国際館パミールには45社171人の報道陣が集結。13台ものテレビカメラの前で、真新しいユニフォームに袖を通し、YGマークの帽子を被せてくれた隣の長嶋監督と握手を交わし、「巨人・落合」が誕生した。
こうして、落合博満と巨人軍の3年間にわたる戦いが始まるのである。
<前編から続く>