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「僕は何もしてないのに厳罰」問題児FWフッキの日本愛…東日本大震災直後にポルトで見せた“ある行動”とは「イエローにも腹は立たなかった」 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byValerio Pennicino/Getty Images

posted2024/09/23 11:04

「僕は何もしてないのに厳罰」問題児FWフッキの日本愛…東日本大震災直後にポルトで見せた“ある行動”とは「イエローにも腹は立たなかった」<Number Web> photograph by Valerio Pennicino/Getty Images

2012年、ポルト時代のフッキ。ヨーロッパ戦線でもそのパワーは脅威を誇った

「シーズンが始まって数カ月で、監督とチームメイトの信頼を獲得できた、という手応えがあった。自分は欧州でもやっていける、という自信をつかんだ」

――シーズン終盤、ポルトガル国籍を取得してポルトガル代表でプレーすることを打診されたそうですね。

「ある日、クラブの会長に呼ばれ、『ポルトガル代表でプレーするつもりはないか』と聞かれた。会長が、ポルトガルサッカー協会から打診を受けたようだった。でも、子供の頃からセレソン(ブラジル代表)でプレーするのが夢だったから、『そう言ってもらえて光栄ですが、やはりセレソンでプレーする夢を追いたい』と伝えた」

ブラジル代表定着のはずが…ある事件で

――そして、2009-10シーズンは攻撃の主軸としてプレー。09年11月、23歳にしてセレソンに初招集されました。そのときの気持ちは?

「子供の頃からの大きな夢が叶って、嬉し涙が止まらなかった。両親、兄弟、親戚、親しい友人らも涙を流して喜んでくれた」

――セレソンでは、イングランド代表とオマーン代表との強化試合に途中出場します。当時の監督はドゥンガでした。試合の前後、何か言われましたか?

「『君は、非凡な才能を備えている。引き続きクラブでしっかりプレーしていたら、2010年ワールドカップ(W杯)に出場できる可能性が大いにある。頑張ってくれ』 と励ましてくれた」

――ところが、この年の末、あなたにとって忌まわしいことが起こります。アウェーでのベンフィカ戦の試合後、ピッチからロッカールームへ向かう通路で両チームの選手が小競り合いを始め、スタジアムの警備員まで巻き込む騒動となった。リーグは、あなたともう1人のポルトの選手を騒動の責任者とみなし、無期限の出場停止処分(ただし国内の試合に限る)を下します。一体、何が起きたのですか?

「総勢数十人が小競り合いをしたんだけど、僕は何も特別なことはしていない。にも関わらず、僕が首謀者とされて厳罰を受けたんだ。全く納得できなかった」

ミランからもオファーを受けたんだけど

――その後、処分は軽減されて10年3月末、国内での試合に復帰します。しかし、規律を重んじるセレソンのドゥンガ監督は、あなたをW杯に招集することはなかった。当時、あなたはキャリアのピークに差しかかっていた。もし2010年W杯で活躍していたら、あなたのキャリアはさらに輝かしいものになっていたのでは?

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