「広岡さんはずっと何かを言っているんです。それで耳を澄ましてみると、“泡出せ、泡出せ”って言っているんです。実はその前日、デイゲームが終わってから宿舎の自動販売機で500ミリの缶ビールを4本買って、山下慶徳に2本やろうと思って、“慶徳、ビール買うてきたで！”って部屋のドアをノックしたら、ちょうど広岡さんが洗濯物を出すために出てきて鉢合わせ（苦笑）。で、そのときは何も言わないのに、翌日の練習ではずっと“泡出せ、泡出せ”って言っていてね」

　この他にも、「いかに、広岡さんの目を盗んで酒を呑んだか」というエピソードはさらに続くが、まずは話を先に進めたい。前述したように、伊勢と広岡との出会いは76年オフに始まる。このとき伊勢はプロ15年目の大ベテランであり、広岡は「代行監督」から、正式に監督に就任したばかりであった。

1976年12月のヤクルト入団会見。下段中央に広岡達朗監督、伊勢孝夫は後列右から2人目　©Sankei Shimbun

　伊勢のスワローズ入りに尽力したのが、バファローズ時代に師事し、当時はスワローズの二軍監督を務めていた小森光生の助言があったためだという。

「プロに入って、ピッチャーから野手に転向するときに、熱心に指導してくれたのが小森さんでした。その後、西本さんが監督になって、僕ら昔からの近鉄選手には悪いしきたりがあるから（苦笑）、永淵洋三さんが日本ハム、土井正博さんが太平洋クラブに移籍していて、で、小森さんが“伊勢なら獲得できそうです”って助言してくれてトレードが決まったんです」

「グラブは返してくれ」「このオッサン、ケチやなぁ」

　勝負強いバッティングを評価されて「伊勢大明神」と名づけられていた。現役晩年が近づいてはいたものの、「まだまだ自信があった」と伊勢は語る。こうして、広岡自ら西本と交渉して、トレードが決まったという。

「当時、ファーストには大杉（勝男）がおったから、広岡さんには“サードもできるようにしてくれ”って言われて、真新しいグラブをもらいました。キャンプ中はずっと練習していたんだけど、開幕2週間前ぐらいに広岡さんに呼ばれて、“どうだ、サードは？”と聞かれたので正直に、“しんどいので、もうええです”って言うと、“じゃあ、グラブは返してくれ”って。“えーっ、くれたんちゃうんですか？”って言っても、“いや、返してくれ”って。“このオッサン、ケチやなぁ”って思いましたよ（笑）」

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