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酒、女性問題、ケガも…「なぜ自分がこんな目に…」巨人・江川事件、悲劇のヒーロー・小林繁の“その後”「30歳で突然引退した事情」
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byBUNGEISHUNJU
posted2024/03/16 17:03
1979年、江川事件で巨人から阪神へ電撃移籍した小林繁
巨人戦中心のローテを自ら希望すると、破竹の対巨人8連勝を記録するのだ。天敵をなんとか攻略しようと、世界の王は代名詞の一本足打法を捨て、二本足で打席に立つほどだった。のちに神がかった1979年シーズンの大活躍の理由を聞かれ、小林は「男の意地だけだと思う」と答えている。
阪神入りしてすぐ、宮崎に送ったままのトランクが気になり取りに行こうとしたが、読売側から騒ぎになるからと断られた。常にマスコミに追いかけられ、昔の同僚に挨拶すら行けず仕舞い。どんな起用法にもそれがオレの仕事だからと耐え、1976年の阪急との日本シリーズでは全7戦中6試合に投げたこともある。巨人軍を守るために身を粉にして働いてきたのに、なんで自分がこんな目にあわなければいけないのか。今の異常な人気は結果が出なければ、やがて批判に変わるだろう。オレは不様なピエロにはならない。もう死にもの狂いでやるしかないのだ。文字通り、野球人生を、いや己の人生そのものを懸けて、小林はマウンドに上がった。
「あんたら、馬鹿かと思いながら…」
怪物・江川が比較対象といえども、巨人は自分より、プロで1球も投げていない投手が上だと判断した。怒りと怨念に突き動かされた背番号19は、阪神1年目に自己最多の22勝を挙げ、初の最多勝を獲得。投球回273回3分の2、17完投、5完封、200奪三振、防御率2.89の堂々たる成績で2年ぶりの沢村賞にも選出され、年俸は3000万円台の大台に乗った。
オールスターには投手部門のファン投票トップで出場する人気を誇り、1979年度の「ベストドレッサー賞」スポーツ・芸能部門にも選ばれ、初のレコード『亜紀子』もリリース。30社近い企業からテレビCM出演のオファーがあった。なお、小林の形態模写で名を売ったのが当時無名の若手芸人、明石家さんまである。ちなみにそのレコードデビューは1979年9月21日発売の『Mr.アンダースロー』で、ジャケット写真は阪神のユニフォームを着て小林のモノマネをする、さんまの姿が確認できる。
だが、すべての物語には光もあれば、影もある。『情熱のサイドスロー 小林繁物語』の中で、阪神1年目の快進撃を振り返り、小林はこんな言葉を残している。