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「結婚するの? しないの?」“5年生存率50%”以下の難病から復帰したプロスノーボーダーが恋人から突きつけられた条件「離婚届か、履歴書か…」
posted2024/01/26 11:02
text by
雨宮圭吾Keigo Amemiya
photograph by
Hideki Sugiyama
病魔に襲われてから、骨髄移植、闘病、復帰、恋人との結婚にいたるまでを荒井本人が赤裸々に明かした。(全2回の後編/前編へ)
「最初の3年くらいは鳴かず飛ばずでしたよ」
DAZEを助けるための活動として『ダゼ募金』が立ち上がり、各地のコンテスト会場やショップにたくさんの募金箱が設置された。その中にはDAZE自身が出場を目指していた『X-TRAIL JAM IN 東京ドーム』のようなビッグコンテストも含まれていた。国母和宏、中井孝治、工藤洸平、村上大輔といった五輪代表クラスのスノーボーダーを始め、多くの人が賛同して支援金と回復を願う思いを寄せてくれた。
DAZEは雪国ではなく千葉県船橋市で育った。元々はスノーボードと深い繋がりがあったわけではない。
兄がサッカーをやっていて、子どもの頃にはJリーグも始まった。中学ではサッカー部に入りたいと思っていたのに、友達のお姉ちゃんに誘われて剣道部に入った。高校生の頃は同じ横乗りでもプロサーファーになりたかったという。地元には室内スキー場『ザウス』があり、友達に誘われてスノーボードをやってみたものの、当時はあまり惹かれなかった。
その魅力に本格的にはまったのは高校卒業後に一般企業に就職してからだ。
「同僚に誘ってもらって行くようになったら、他の人よりも上手く滑れて、これはちょっといいなと。そこからあらゆる雑誌やビデオを見ました。もうスノーボードオタクでしたね」
なかでも衝撃を受けたのが、2000年にNUTS FILMからリリースされた『Real Prayer』というビデオで、そこにはのちに北海道のイベントでDAZEに「帰れ」と言ってくれた安藤健次も参加していた。「自分も向こう側に行きたいという気持ちになった」というDAZEは思い切って会社を辞めた。自分もプロを目指そうと決意したのだ。
「最初の3年くらいは本当に鳴かず飛ばずでしたよ」
石油ストーブやテレビデオを積み込んだワンボックスカーに住み込み、上越国際スキー場で一冬を過ごした。夏でも滑れると聞くと、初めてパスポートを取って右も左もわからないまま南半球のニュージーランドまで足を延ばしてみた。
予選落ちして気づいた自分の甘さ
闘病を支えてくれた彼女と出会ったのもスノーボードがきっかけだった。茨城県にあった『カムイ竜ヶ崎スノーボードパーク』で「あ、可愛い子がいるなと。そうしたら次の週も、また次の週もいたんです」。だが、通ううちに知り合ったその彼女から誘われて参加したコンテストで、DAZEは赤っ恥をかいた。