熱狂とカオス!魅惑の南米直送便BACK NUMBER
「泣きじゃくる妻を抱きしめた」大ケガに糖尿病、“命にかかわる心臓病”→給与未払い悪夢のち…ブラジル代表、J得点王になった男の逆転人生
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph byTakuya Sugiyama/Getty Images
posted2024/01/22 11:02
浦和レッズ時代とブラジル代表時代のワシントン
「この試合が、今後の私のキャリア、ひいては人生を左右する試合になるとわかっていた。対戦相手は、かつて私が在籍したパラナ。無我夢中でボールを追いかけ、後半開始直後、ゴールを決めることができた。感極まってスタンドを見上げると、両チームのサポーターが立ち上がって拍手を送ってくれていた。あれほど感激したことは、後にも先にもない。その場では辛うじて涙を堪えたが、家へ帰ったらベッドに突っ伏して号泣した。やはり泣きじゃくっている妻を抱きしめた。心臓疾患に打ち勝った、と思った」
ただし、久しぶりの試合でかなり疲れたようだ。
「全身に深い疲労を感じた。特に、両足がパンパン。回復するまで、3日ほどかかった(笑)」
その後も好調で、州選手権で10得点をあげた。
クルピのもとで主将→ヴェルディに加入
そして、4月下旬、ブラジルリーグが開幕。監督は、レヴィー・クルピ(注:後にセレッソ大阪、ガンバ大阪の監督を務めた)で、ワシントンはキャプテンを任された。
最初の5試合は無得点だったが、第6節の強豪サントス戦で決勝点を叩き出してから波に乗った。その後は驚異的なペースで得点を重ね、38試合に出場して34得点。もちろん得点王で、ブラジルリーグの最多得点記録を更新した(注:この記録は、現在に至るまで破られていない)。そして、チームは準優勝を遂げた。
クルピ監督は、「ワシントンの闘志溢れるプレーに引っ張られて、チームが一丸となった」と語っている。
この「奇跡としか言いようのないシーズン」(本人)を経て、2005年1月、東京ヴェルディへ移籍した。
シーズン前哨戦であるゼロックス・スーパーカップの横浜F・マリノス戦で名刺代わりの2得点をあげると、Jリーグで得点王ランキング2位の22得点を記録した。しかし、チームはJ2へ降格してしまう。
浦和1年目に得点王、しかし翌年は監督と対立
翌年、浦和レッズから熱心なオファーを受けて移籍する。Jリーグで26点を叩き出して得点王に輝き、Jリーグ初制覇に貢献。天皇杯でも優勝した。
しかし、2007年はホルガー・オジェック監督と意見が対立することが多く、Jリーグでは16得点にとどまった。チーム史上初となるAFCチャンピオンズリーグを果たす歴史的なシーズンとなった一方で、当時の偽らざる心境はどのようなものだったのか――。
<つづきは第4回へ>