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「泣きじゃくる妻を抱きしめた」大ケガに糖尿病、“命にかかわる心臓病”→給与未払い悪夢のち…ブラジル代表、J得点王になった男の逆転人生 

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沢田啓明

沢田啓明Hiroaki Sawada

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photograph byTakuya Sugiyama/Getty Images

posted2024/01/22 11:02

「泣きじゃくる妻を抱きしめた」大ケガに糖尿病、“命にかかわる心臓病”→給与未払い悪夢のち…ブラジル代表、J得点王になった男の逆転人生<Number Web> photograph by Takuya Sugiyama/Getty Images

浦和レッズ時代とブラジル代表時代のワシントン

「子供時代の夢は、まずプロ選手になること。それから、国内ビッグクラブに入団して活躍すること。そして、セレソンに選ばれること――。これらの夢を一つずつ達成できたんだ。セレソン招集の知らせを受けて、両親と抱き合い、涙を流して喜んだ」

 故障と病気を乗り越え、24歳で中堅クラブで実績を残し、遅まきながら26歳で初めてセレソンに招集された。ここから、彼のキャリアが大きく開けていく。

 日韓W杯開催を控え、2001年5月30日から6月10日まで、日韓両国でコンフェデレーションズ・カップが開催された。セレソン(ブラジル代表)は南米代表として出場し、ワシントンは出場メンバーに選ばれた。

02年W杯のセレソンはロナウドが軸だったから…

 まず、大会前の調整のために東京で行なわれた東京ヴェルディとの親善試合に先発し、代表初ゴール。そして、グループステージ(GS)最初のカメルーン戦でも後半7分、後方からパスを受け、DF2人をかわして左足で強烈に決めた。代表Aマッチでの初ゴールだ。

「一生忘れられない得点。最高の気分だった」

 その後の試合でも、先発を任された。しかし、セレソンは準決勝でフランスに1-2と競り負ける。さらに、3位決定戦でもオーストラリアに0-1で敗れ、4位に終わった。エメルソン・レオン監督(注:1992年から94年まで清水エスパルス、1996年から97年までヴェルディ川崎、2005年にヴィッセル神戸を指揮した)は、ブラジルへ帰国する飛行機の中で解任を言い渡された。

 その後、2002年1月から3月にかけて、ワシントンは強化試合3試合に途中出場して1得点をあげたが、惜しくもW杯に招集されなかった。以後、彼がセレソンに招集されることはなかった。結局、セレソンでの成績は国際Aマッチ9試合に出場して2得点だった。

「2002年W杯のセレソンは、ロナウドが絶対的なレギュラーで、その控えを私を含む2、3人が争った。ほんのわずかのところで、W杯出場登録メンバーから漏れた。もし選ばれていたらW杯優勝メンバーとなっていたはずだから、非常に残念だ。でも、セレソンのカナリア・イエローのユニフォームを着ることができただけでも非常に光栄だよ」

トルコ移籍→心臓疾患発覚→給与未払いの悲劇

 2002年7月、ワシントンはトルコの強豪フェネルバフチェへ移籍した。

【次ページ】 手を差し伸べるクラブは母国にあった

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