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「泣きじゃくる妻を抱きしめた」大ケガに糖尿病、“命にかかわる心臓病”→給与未払い悪夢のち…ブラジル代表、J得点王になった男の逆転人生
posted2024/01/22 11:02
text by
沢田啓明Hiroaki Sawada
photograph by
Takuya Sugiyama/Getty Images
プロフットボーラーの夢を叶えるため、故郷ブラジリアから約1900km離れた土地カシアス・ド・スルへと渡ったワシントン。10代にしてトップチームデビューを飾るなど前途洋々の未来があるかと見られた。しかし96年、20歳から21歳にかけて、ワシントンに大きな試練が立て続けに襲ってきた。
大ケガに続いて糖尿病、それでも諦めようとは…
まず試合中、マーカーと接触した際、右足首の靭帯を断裂してしまった。
「『もうプレーできないんじゃないか』という声もあって、動揺した。それでも、手術をして、長期間のリハビリに耐えた」
ところが練習に復帰した直後、今度はやたらに喉が渇き、トイレが異常に近くなり、体調がおかしい。病院で検査を受けたところ、「糖尿病」という診断だった。
「糖尿病には2種類あって、生活習慣に起因する2型ではなく、1型。家族、親族に糖尿病を患った者は一人もおらず、原因は不明だった。このときも、『もうプレーできないんじゃないか』と言われた。それでも、我慢強く治療を受け、薬を服用して復帰を目指した。
「故障に続いて、糖尿病。目の前が真っ暗になったが、それでもフットボールを諦めようとは思わなかった。毎晩、神様に祈りながら完治を願った」
翌1997年、同州の名門インテルナシオナルからオファーを受けて期限付き移籍した。しかし、まだ体調が十分に回復しておらず、本来のプレーはできなかった。1998年は、サンパウロ州の中堅クラブであるポンチプレッタへやはり期限付き移籍。しかし、ここでも目立った活躍はできなかった。1999年、23歳で中堅クラブであるパラナへ完全移籍。ようやく体調が整い、レギュラーとしてまずまずのプレーができた。
「このとき初めて、将来の展望が開けてきた」
セレソン招集に両親と涙を流して喜んだ
2000年7月にポンチプレッタへ復帰すると、2001年、大きな飛躍を遂げた。州選手権で14ゴールをあげ、得点王。コパ・ド・ブラジルでも、12ゴールを決めて得点王。2001年4月、セレソンに初招集を受け、2002年日韓ワールドカップ(W杯)南米予選のペルー戦に途中出場した。