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甲子園の風BACK NUMBER
「鎮痛剤を飲みながら毎日投げていた」甲子園優勝投手→JR東日本で野手転向、日大三エースはひっそりと野球を辞めた…吉永健太朗が明かす「その後」の人生
text by
内田勝治Katsuharu Uchida
photograph byJIJI PRESS
posted2023/12/25 06:05
2011年、日大三のエースとして甲子園優勝投手となった吉永健太朗。その後の野球人生を振り返ってもらった
「Hi5 Tokyo」には小学生主体のジュニアチームもあり、4歳の長男も、ちょっぴり年齢が上のお兄さんやお姉さんに混じり、練習に参加している。その愛息のためにも、再び「1番」になることが、父としての新たな目標だ。
「まずは、僕が運営しているチームで日本一を目指しています。個人的には、日本代表に選んでいただき、世界一を獲りたいです」
甲子園優勝投手という肩書ってやっぱり凄い
10月には30歳を迎えた。プロ入りした日大三の同級生も新たなステージへと進む。高山俊選手は阪神を退団し、来年からイースタン・リーグに加盟する「オイシックス新潟アルビレックスBC」に加入。横尾俊建選手は現役を引退し、楽天の二軍打撃コーチに就任することが決まった。いつまでも同じ場所や地位にとどまることはできない。ただ、どんなに時が移ろうとも、「甲子園優勝投手」の肩書が色あせることはない。
「あの夏から10年以上経ちますけど『あの時のシンカーは凄かった』といった話をしてくださる。甲子園優勝投手という肩書ってやっぱり凄いなと、今になってあらためて感じています」
栄光も挫折も…指導者として伝えていること
B5での活動と並行して、地方の野球チームや個人の投球指導にも力を入れている。投手として栄光も挫折も経験した吉永さんでなければ伝えられないことが数多くある。
「高校1年生まではマックスが130キロぐらいで、肩の怪我はありませんでした。そこから1年間トレーニングして147キロが出て、球速が上がって一気に怪我もするようになりました。上半身のウェイトトレーニングを全然やっていなかったので、もう少しやっていればよかったというのはあります。今、野球のスクールを運営している同級生が『肩の安定性はトレーニングで補うことが大事』という指導をしているので、そこは僕にも当てはまったのではないかとは思います」
子曰く、三十にして立つ。スポーツビジネスのフィールドに携わり、B5で日本一、そして世界一、さらには後進の育成……。吉永さんの夢多き30代は、まだ始まったばかりだ。
<前編とあわせてお読みください>
吉永健太朗(よしなが・けんたろう)
1993年10月13日、東京都生まれ。2011年夏の甲子園で日大三のエースとして優勝を果たす。その後、早稲田大、JR東日本で野球を続け、2019年に引退。引退後は社業に専念した後、2022年10月、パーソルキャリア株式会社に転職。現在は法人営業を担当している