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「鎮痛剤を飲みながら毎日投げていた」甲子園優勝投手→JR東日本で野手転向、日大三エースはひっそりと野球を辞めた…吉永健太朗が明かす「その後」の人生 

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内田勝治

内田勝治Katsuharu Uchida

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photograph byJIJI PRESS

posted2023/12/25 06:05

「鎮痛剤を飲みながら毎日投げていた」甲子園優勝投手→JR東日本で野手転向、日大三エースはひっそりと野球を辞めた…吉永健太朗が明かす「その後」の人生<Number Web> photograph by JIJI PRESS

2011年、日大三のエースとして甲子園優勝投手となった吉永健太朗。その後の野球人生を振り返ってもらった

「自分の中で野球がなくなるということを想像していなくて、もうちょっとやりたいと思っていました。でも、寝る前に『明日投げられるかな』という不安の中、毎日すごしていたので、そのストレスから解放されたというのもあって……ちょっと複雑な心境ではありました」

家族との時間も大事にしていきたい

 他で野球を続ける選択肢はなく、現役引退を決断。会社に残り、社業に専念する選択をした。都内のターミナル駅に駅員として勤務し、みどりの窓口で切符や定期券を発行、払い戻しなどの対応、改札業務などを行う仕事にやりがいも感じていた。

 社業に専念するのとほぼ同時に2018年に結婚した妻との間に子どもが生まれた。一緒に過ごしていくうちにある考えをもつようになる。

「駅って電車の運行を回す仕事がメインになるので、基本は夜勤です。家族との時間も大事にしていきたいという思いもあり、転職を考えました。周りの方からは『看板と安定性のあるJRから職を変えて違うところに行くというのはもったいないんじゃないか』という声もいただきましたけど、それ以上に自分自身の裁量でやりたいことができるかや、ワークライフバランスを求めるところがあったので、チャレンジしたいと思いました」

ゆくゆくはスポーツ事業にも

 知人や友人のツテに頼ることなく、転職サイトに登録。履歴書を作成し、書類選考や面接を通過していく過程で、妻の理解も得ることができた。そして2022年10月、スポーツ事業にも力を入れているパーソルキャリア株式会社へと転職した。

 現在、法人顧客の中途採用活動への支援を通じ、人事・経営課題を解決するソリューション型の提案営業を行っている。着任当初はパソコンが使えず、ビジネスメールの作成に苦労したり、対面営業で名刺を持参しなかったりと失敗もあったが、一つ一つ課題をクリアしながら、営業マンとしての経験値を積んでいる。

【次ページ】 「痛みのない」あるスポーツに挑戦

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