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「あんたら、おかしいよ?」楽天・初代編成部長が見た“地獄”…まさかの“スカウト0人”でドラフト会議「他球団が絶対に指名できないピッチャーがいた」
posted2023/12/21 17:20
text by
沼澤典史Norifumi Numazawa
photograph by
JIJI PRESS
50年ぶりの新規参入球団として誕生した楽天イーグルスも、今年創立19年を迎えた。いくつも苦難のシーズンを乗り越えてきたが、2013年には24連勝の田中将大を擁し、悲願の日本一を達成。今や人気球団として定着したが、その創成期は波乱続きであった。楽天の初代編成部長を務めた広野功に当時の話を聞いた。【全3回の前編/中編、後編も公開中】
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「もしもし、今から六本木ヒルズに来られますか?」
「もしもし、ヒロノさーん。マーティでーす。今から六本木ヒルズに来られますか?」
2004年9月28日、母校である慶應大学野球部の秋季リーグを観戦していた広野功に一本の電話が入る。電話の相手は、過去に太平洋クラブライオンズのフロントを務め、スポーツライターや評論家として日米のスポーツビジネスに精通しているマーティ・キーナートだった。
同年6月から球界はプロ野球再編問題に揺れていた。広野が電話を受けたのは、オリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズが合併し、新規参入球団として楽天とライブドアが名乗りを上げていた時期だ。かねてより、近鉄買収の意思を示していたライブドアに対し、楽天は9月に参入意思を表明した。マーティからの電話は、広野に楽天の編成部長をしてほしいという旨だったのだ。
1943年徳島県徳島市生まれの広野は、徳島商業で甲子園に出場し、慶應大学に進む。慶應時代に広野はリーグ通算8本塁打という長嶋茂雄に並ぶ当時の六大学タイ記録を樹立し、中日にドラフト1期生(3位)で入団した。その後、西鉄、巨人、中日を渡り歩き、球界史上唯一、逆転サヨナラ満塁本塁打を2本放った勝負強いバッターとして球史に名を残した。現役引退後は、中日スポーツの記者を経て、中日やロッテ、西武のコーチや二軍監督を経験。ロッテでは2001年から2003年まで編成部長も務めた。
「あんたら、おかしいんじゃないの?」
そんなプロ野球界の表と裏を知り尽くした広野へ、新球団の編成部長として白羽の矢が立ったのだ。六本木ヒルズでのやりとりを広野はこう話す。