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「キミがロッテ初の外国人監督に最もふさわしい」広岡達朗はマイナーの44歳監督に目をつけた…バレンタインが明かす「きっかけは球数制限だった」
text by
ボビー・バレンタイン&ピーター・ゴレンボック"Bobby" Valentine&Peter Golenbock
photograph byJIJI PRESS
posted2023/12/09 06:00
1994年秋、マイナー3Aの指導者からロッテ初の外国人監督となったボビー・バレンタイン。自伝で語られた当時の秘話とは…?
私は広岡さんに注目されていた。広岡さんは私がタイドウォーターで指揮を執った各地での試合に15試合ほど訪れて私を細かく調べていた。彼は信じられないほどの量のノートを取り、夕食を共にしたときには試合中に私が下した采配の根拠を細かく聞いてきた。トミー・ラソーダ以外で、私が知っている中では広岡さんが最も博識な野球人だった。彼の身体はジョー・ディマジオのようで、服の着こなしもジョーのように非の打ち所がなかった。ファッションショーのランウェイから降りてきたばかりのような出で立ちの広岡さんは、一流の人だった。
条件も聞かず、私はイエスと言った
タイドウォーターのシーズンが終わる直前に広岡さんと共にしたディナーの席で、彼はこう言った。
「私は今年の夏160試合を見て、たくさんの人と面接をした。今私は、君が我がチームで初の、日本人以外の監督となるのに最もふさわしい人物だと確信している。仕事を引き受けてもらえるだろうか?」
報酬のことも口にせず、条件も聞かず、私はイエスと言った。同意の握手をしたときに私が知らなかったのは、日本では秋季キャンプと呼ばれるものがあるため、あまり長く家にいられないことだった。10月に自宅で休んだ後、私は日本に飛んで5、6週間過ごし、浦和市(現さいたま市)のロッテの工場の隣にある小さな球場で仕事をすることになった。ボビーJr.がまだ小さかったので、(妻の)メアリーには大変な思いをさせた。私はひとりで日本に滞在した。メアリーは1週間だけ来て、少しショッピングをして帰国した。
自宅から何千マイルも離れていること以外、日本での生活はすべて楽しんだ。伯母のドリスが絶対に許さない、麺のすすり方も学んだ。ドリスはガムをかむときに音を立てることも激しく嫌ったし、食事のときは静かに食べるよう、私は強く注意されていた。
秋季キャンプ中は、ピクニック用のテーブルが並べられている暖房が効いた大きな部屋で100人ほどの人、うち80人は選手、が食事をした。ほとんどがラーメンを食べていて、会話をする者はおらず、全員麺をすすっていた。私は恐ろしかったが、慣れていった。麺のすすり方を覚え、彼らの輪に加わった。
<続く>