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「キミがロッテ初の外国人監督に最もふさわしい」広岡達朗はマイナーの44歳監督に目をつけた…バレンタインが明かす「きっかけは球数制限だった」 

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ボビー・バレンタイン&ピーター・ゴレンボック

ボビー・バレンタイン&ピーター・ゴレンボック"Bobby" Valentine&Peter Golenbock

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posted2023/12/09 06:00

「キミがロッテ初の外国人監督に最もふさわしい」広岡達朗はマイナーの44歳監督に目をつけた…バレンタインが明かす「きっかけは球数制限だった」<Number Web> photograph by JIJI PRESS

1994年秋、マイナー3Aの指導者からロッテ初の外国人監督となったボビー・バレンタイン。自伝で語られた当時の秘話とは…?

広岡さんがアメリカを訪れた理由

 ロッテは莫大な資産を誇る創業者一族経営の会社で、アジアでチョコレートやキャンディ、ガムなどを販売していた。創業者の息子のひとり、重光昭夫さんが野球チームの運営を任されていて、彼はアメリカで教育を受けた経験があった。彼のチームは1992年に日本の川崎市から現在の千葉市に移転した。東京からは45分のところにある新しく開発された街で、成田国際空港と東京のちょうど真ん中に位置している。東京ディズニーランドからも至近距離にある千葉市美浜区の街は、埋め立て地に作られていた。東京湾には、第二次世界大戦後に生じた瓦礫で埋め立てられた土地が多くある。埋め立てから20年が経つと、地盤が安定して建築物が建てられるようになった。新たな街が作られ、それはとても美しかった。

 20階建てのオフィスビルや広い通り、美しく点灯された広告。東京湾に面しており、富士山と東京の街の輪郭を臨む素晴らしい景色が見えた。

 だが、千葉ロッテ球団は行き詰まっていた。川崎から移転後、リーグ6チーム中5位より上になったことがなかった。広岡さんは、球団史上初の日本人ではない監督を探す命を受け、アメリカを訪れていた。

彼は信じられないほどの量のノートを取っていた

 私が広岡さんと初めて会ったのは、1986年だった。当時、彼は私が球数制限をしていると知り、詳しく話を聞きたいと言ってくれた。私は日本の野球コーチの前で、私がレンジャーズでしていたことを話す場に招待された。そのとき私は、日本のオールスターチームと対戦するアメリカのオールスターチームで監督を務めたデイビー・ジョンソンと共にコーチとして日本を訪れていた。我々のチームには、トニー・グウィン、デイル・マーフィー、ホセ・カンセコ、オジー・スミスなどMLBのスター選手がいた。私は子供相手の野球クリニックにも参加した。私は、1977年にメジャーリーグのアメリカ人選手として初めてミズノのグローブを使ったが、日本球界の中にはそのことで私を知っている人もいた。

【次ページ】 条件も聞かず、私はイエスと言った

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