酒の肴に野球の記録BACK NUMBER
高卒2年目で完封初勝利も「実はわき腹痛が」25歳で3度の戦力外通告のち引退…現アマ指導者・木下達生が語る“プロ野球生活の天国と地獄”
text by
広尾晃Kou Hiroo
photograph byJIJI PRESS
posted2023/09/02 17:01
2007年、日本ハム時代の木下。当時身を置いていたプロの世界の過酷な競争を語った
〈調子は良かったですね。実はこの時期イップスにもなって、投げ方も変えました。以前は大きなテークバックをとっていたんですが、キャッチャーみたいな小さなテークバックに変えました。それも良かったのだと思います〉
中日ドラゴンズから育成契約のオファーがあり契約。念願の中日のユニフォームにそでを通した。
〈二軍では教育リーグから調子が良かったのですが、ちょっと打たれるとチャンスがなくなる。育成は厳しいなと思ったのですが、7月に支配下登録されて17日の広島戦の8回から投げました。安打こそ打たれなかったんですが、四球を2つ出して降板。そのタイミングで「野手を上げないといけないので悪いけどファームに行ってくれ」と言われて、それきりでした〉
25歳で3度目の戦力外、引退で変わった運命
2011年11月に再び12球団トライアウトを受けてヤクルトに入団が決まったが、2012年中の支配下登録はなく、オフに3度目の戦力外通告をされる。25歳のことだった。
〈僕の野球人生は途中まで、とても順風満帆でした。中学時代は控えだったのに東邦高校で有望株という扱いになった。そしてプロに進んだのですが、その間に野球の練習以外にウェイトトレーニングも学んだ。また故障をしてからは、リハビリテーションをしながら現役生活を続けてきました。
だからこそ野球を引退したら、大学で身体のケアについて学び直そうと思っていました。当初はアリゾナ大学に行こうと思っていたのですが、そんな時に東邦高校で、阪口監督の次の監督だった森田泰弘監督(現総監督)から「高校の指導者になる道もあるんじゃないか」と声をかけていただいたんです〉
木下達生という野球人の運命は、恩師の言葉で大きく変わろうとしていた。
<第3回「高校指導者になったワケ」に続く>