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「僕が行きたいのはジャイアンツだけです」オリックスのドラ1指名を拒否…内海哲也が明かす東京ガス入社の真相「俺、高校をやめて働くわ」
text by
内海哲也Tetsuya Utsumi
photograph byJIJI PRESS
posted2023/07/12 17:00
2000年11月17日、ドラフト会議でオリックスから1位指名を受けた敦賀気比高時代の内海哲也。携帯電話で仰木彬監督と言葉を交わした
東京ガスでの経験
高校卒業後に2001年から2003年まで東京ガスですごした3年間を振り返ると、長くもなく、短くもなく、ちょうどいいくらいの時間だったと思います。当時の僕は世間知らずだったので、社会人に進んで良かったです。
高校時代は3学年という世代の中ですごしましたが、社会人チームには10歳上の先輩もいました。高校の部活動では「このメニューをやろう」と上から指示が降りてきますが、社会人ではチームで決められたメニューに加えて、自分で考えて取り組む範囲が広くなります。各自が主体的に時間をつくり、どれだけ練習できるかが求められるようになりました。
学生から社会人になると、お金の管理も必要になります。手取りで16万円くらいの月給を、どのようにやり繰りしていくのか。高校生から社会人になり、大きく変わったことのひとつです。
東京ガスですごした3年間は、プロに進む前の“予行演習“として考えるとすごくありがたい時間でした。高卒でいきなり年俸1000万円くらいもらっていたら、どうしていいのかわからなくなっていたかもしれません。
2001年に東京ガスの野球部に入った選手の中には、僕を含めて4人の高卒がいました。そのうちのひとりが片岡保幸(元西武、巨人)です。新入部員の中でピッチャーは僕と片岡茂治のふたりでともにサウスポー。徳村光晴さんという右ピッチャーのエースだった方に、野球や私生活を含めて厳しく指導していただきました。
ピッチャーとして振り返ると、高校時代からそれほど上積みはできなかったかもしれません。入社した頃には左肩に負傷を抱えていました。
そうした事情もあって東京ガスでの3年間、社会人ナンバーワンを決める都市対抗野球では1度も登板できませんでした。3年目の2003年にはシダックスに補強選手として呼んでいただきましたが、左肩が痛くて投げられず、監督の野村克也さんから「ジャイアンツに投げるなって言われてるんだろう」とボヤかれたくらいです。本当に痛かったんですけどね(苦笑)。シダックスにはのちにジャイアンツでチームメイトになる野間口貴彦と、左腕の武田勝さん(元北海道日本ハムファイターズ)がいました。