プロ野球PRESSBACK NUMBER
「僕が行きたいのはジャイアンツだけです」オリックスのドラ1指名を拒否…内海哲也が明かす東京ガス入社の真相「俺、高校をやめて働くわ」
text by
内海哲也Tetsuya Utsumi
photograph byJIJI PRESS
posted2023/07/12 17:00
2000年11月17日、ドラフト会議でオリックスから1位指名を受けた敦賀気比高時代の内海哲也。携帯電話で仰木彬監督と言葉を交わした
不安を抱えてのプロ入り
社会人の3年間では、走り込みと週3回のウエイトトレーニングの成果で体重が13kgアップしました。下半身が安定し、球速150km/hを記録したこともあります。
ですが、選手としての結果はほとんど残せませんでした。2年目の2002年4月には岡山県倉敷市で行われた全日本代表候補合宿に初参加し、秋には東京ガスで出場した日本選手権で優秀選手賞を獲得。キューバで開催されたインターコンチネンタルカップでは再び日本代表に選出され、世界の強豪と対戦する機会に恵まれました。この大会に日本代表はプロアマ混成チームで臨み、アマチュアからは僕や慶應大学の長田秀一郎さん(元西武、横浜DeNAベイスターズ)、プロからはのちにジャイアンツでチームメイトになる真田裕貴、二岡智宏さんなどがメンバーに入っていました。
そして社会人3年目の2003年秋にドラフトを迎え、自由獲得枠でジャイアンツに入団します。僕にとって、3年越しの夢がかなった瞬間でした。背番号は祖父の五十雄と同じ26番に決定。仮契約を結んだ際には、「やっと一員になれました。肩さえ治れば、アピールして春季キャンプ地のグアムに連れて行ってもらいたい」とコメントを発表しました。
ADVERTISEMENT
プロ野球選手としての目標は、「1回はお立ち台に立ちたい」。自由獲得枠の社会人選手としては控えめに聞こえるかもしれませんが、正直「大丈夫かな……」という気持ちが強くありました。過去を振り返ると、ジャイアンツは自由獲得枠(逆指名)で1997年に高橋由伸さん、1998年に上原浩治さんと二岡さん、1999年に高橋尚成さん、2000年に阿部さんと上野さん、2002年には木佐貫洋さんと久保裕也さんという、アマチュアでトップクラスの選手を立て続けに獲得していたからです。
対して僕は、東京ガスで大した成績を残したわけではありません。
悲願のジャイアンツ入りが決まってうれしい気持ち以上に、不安を抱えてプロに進むことになりました。
<#2に続く>
記事内で紹介できなかった写真が多数ございます。こちらよりぜひご覧ください。