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アウェイに向かう道中は赤信号ナシ、白バイに囲まれ扱いはプレジデント並…「NFLに最も近づいた男」が明かす本場アメリカでの“超VIP待遇”
text by
山崎ダイDai Yamazaki
photograph byGetty Images
posted2023/07/18 17:00
昨季でアメフト競技の現役引退を発表した木下。未だ彼の実績を超える日本人選手はいない
日本一の選手がアメフトの本場を目指すまで
木下は、幼少期に2人の兄の背中を追ってフットボールを始めた。
進学した大産大附属高では高校選手権を連覇。その後は立命館大へ入学すると、大学日本一を決める甲子園ボウルで3連覇、社会人チームと戦うライスボウルでも連覇を果たす。40ヤードを4秒4で走る直線スピードと、一瞬で0から100までギアを入れられるクイックネスは、当時の日本人の中では傑出していた。
「大学2年の夏に、当時の全米王者だったオクラホマ大と練習できる機会があったんです。そこで『ここで練習を続けられたらレギュラー獲れるかもしれん』と思ったんですよね」
それまで考えたこともなかった「NFL」という夢舞台。それが、実際にアメリカの一流校とフットボールをプレーしたことで、現実的な目標へと変わっていった。そして大学を卒業した2005年、木下は当時ヨーロッパに存在したNFLの下部リーグであるNFLヨーロッパへの挑戦を決めた。
NFLヨーロッパはアメリカンフットボールをアメリカ以外の国にも普及していこうという目的でNFLが欧州で主催したリーグ戦である。1991年から2007年までは毎年4~6月にかけて、ヨーロッパ各地に本拠地を置く6チームによる総当たり戦が行われていた。
選手はNFLの各チームから派遣される若手選手と、アメリカ国籍以外からトライアウトで選抜されたナショナルプレーヤーがおり、木下のような日本人選手は後者に属する。MLBやNBAでいうところのマイナーリーグ的な立ち位置といえばわかりやすいだろうか。
「最初はレベルの差に戸惑いましたね。日本からヨーロッパに行くじゃないですか。そうすると、本当に中学生と大学生くらいのレベルの差があるんです。日本の高校生が社会人リーグに出るくらいの感じですよ」
一方で、適応の時間さえあれば通用しないという感覚は無かったという。徐々に環境に順応していった木下は、翌2006年、2007年と2年連続でポジション別MVPを受賞するなど活躍を見せた。
突然のNFLチームからのオファー
大きく事態が動いたのは、2007年のシーズン中のことだった。
「当時はオランダのチームに所属していたんですが、シーズン終盤の試合でドイツにいたんですよね。その日はオフだったので遊びにでていたんです。そしたら急にチームメイトから『ノリ! アトランタから連絡が来ているぞ!』という電話が来て」
チームメイトやスタッフたちは半ばパニック状態だったという。
それも無理もないことだった。当時はNFLヨーロッパからNFLに行けるとしても、直接契約に繋がらないお試し的な「外国人練習生」の枠がほとんどだった。ところが、木下の下に舞い込んだオファーは、アメリカ人と同じ土俵での契約だったからだ。
ただ、周囲の喧騒とは異なり、木下本人はいたって冷静だったという。
「自信があったんで。ヨーロッパで結果も出していたし、『やっと来たか』と」
いったん契約内容の確認のため日本に戻った木下には、アトランタ以外にもニューヨーク・ジャイアンツからもオファーが届いていた。ニューヨークは日本企業や観光客の数も多く、当時はジャパンマネーを背景にしたスポンサーの力もまだ期待できた。しかし、木下は「純粋にフットボールの実力だけで勝負したい」と迷わずアトランタを選んだという。