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右ひじ故障も防御率0.91で新人王獲得…30年前、セ・リーグを席巻した「伝説の高速スライダー」伊藤智仁が語る“生涯最高のピッチング”
text by
熊崎敬Takashi Kumazaki
photograph byKazuaki Nishiyama
posted2023/06/09 06:01
ドラフト同期の松井秀喜などを抑え、規定投球回数に達していなかったが、新人王となった伊藤。ルーキーイヤーを本人が振り返った
「いつも1本の線を引いて、2分割したどちらかに投げ分けるんです。プロなら最低限、これができなきゃいけない。野村スコープの9分割? あれは絶対に無理。でも阪神戦は初球から最後まで、2分割ではなく4分割で投げ分けられたんですよ」
狙ったところにボールが吸い込まれていく。追い込まれてからの魔球を恐れた打者はカウント球に手を出し、次々と凡退した。
被安打3の106球。2時間19分で終わった甲子園での完封劇。これこそ伊藤の最高傑作である。
7月の巨人戦9回途中でひじに異変
伊藤がその後、甲子園での理想のピッチングを再現することはなかった。7月4日の巨人戦でも9回無失点の好投を見せたが、9回途中でひじに異変が生じた。このイニングは投げ切ったものの、これがルーキーイヤー最後の登板となる。このときから2003年の引退まで、故障との終わりなき戦いが始まった。
伊藤は淡々と振り返る。
「当時、先発投手は中4日も珍しくなく、最後まで投げるのが当たり前でした。でも、これだけ投げれば、そりゃ壊れますよ」
わずか3カ月に終わったルーキーイヤー。伊藤は14試合に登板して1733球を投げた。とくに5試合49回と3分の2イニングをわずか2失点に抑えた6月の球数は、694球に到達。また5月28日の横浜戦では延長12回を投げ、実に193球を投じた。いまでは考えられない登板間隔と球数。しかし当時は、球数を目安に交代させるという考えが浸透していなかった。
ぼくのキャリアは半分がリハビリでした
「悲運のエース」と呼ばれた伊藤は、「ぼくのキャリアは半分がリハビリでした」と振り返る。だが、そう語る表情は清々しいものがあった。悲運に終わった自らのキャリアが、次世代の投手を守る礎となったという手応えがあるからだ。
「ぼくの時代、ピッチャーの寿命は30歳くらいなんですよ。でも、ぼくの体験もあって登板間隔や球数が管理されるようになり、選手寿命が延びていった。いまは35歳でも、ベテランとは呼ばれないですからね。ぼくの野球人生はたしかにリハビリばかりだったかもしれない。でもピッチャーを守るという意味では、球界に爪痕を残すことができたんじゃないかな」
2003年に引退した伊藤は、翌年からヤクルトでコーチを務め、昨年は富山GRNサンダーバーズを指揮。今季、新たに楽天のコーチに就任した。
指導者となった伊藤は、いつも若者たちにこんな言葉をかける。
「なによりも大切なのはコンディションだ。不安を抱えて投げて一年を棒に振るくらいなら、一日投げるのを我慢しなさい」
幸せな野球人生を送るんだぞ、と願いながら。
伊藤智仁Tomohito Ito
投手
生年月日 1970年10月30日
出身地 京都府 プロ入り前 花園高校-三菱自動車京都
入団 1993年 ヤクルト(ドラフト1位)
1年目成績 14試合登板 7勝2敗 防御率0.91(新人王)
[経歴]
1993-2003 ヤクルト
2004-2007 ヤクルト二軍投手コーチ
2008-2017 ヤクルト一軍投手コーチ
2018 富山GRNサンダーバーズ監督
2019- 楽天一軍投手チーフコーチ
2021- ヤクルト一軍投手コーチ
通算成績 127試合登板 37勝27敗25セーブ 防御率2.31
主なタイトル カムバック賞:1997年
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