アスリート万事塞翁が馬BACK NUMBER
「怪物が消えた」児童養護施設に預けられる寸前だった野中徹博は名将と出会い…甲子園で無双した“世代最強投手”がドラフト指名されるまで
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byKatsuro Okazawa/AFLO
posted2023/06/25 11:00
“世代最強投手”と謳われた中京(現・中京大中京)高校時代の野中徹博。甲子園通算で10勝3敗、防御率0.79と驚異的な数字を残した
怖い打者は1人もいなかった。初戦から剛腕がうなりを上げ、2回戦では大成(和歌山)を1対0で完封し、中京高に春夏通算100勝をもたらした。
甲子園で10勝、通算防御率は驚異の0点台
甲子園に計3度出場した野中にとって、忘れられない試合がある。私はすぐに、往年の高校野球ファンなら誰もが知っている3年夏の準々決勝、池田高校(徳島)の水野雄仁(元巨人)と投げ合った投手戦を思い浮かべた。
しかし野中は「あの試合ではないんですよ。あの時は大会前に肩を痛めて万全ではなかったから……」と首を横に振った。
「2年の春と夏の準決勝が、今でも脳裏に焼き付いて離れないんです」
そう口にして、雨が降りしきる窓の外に視線を送った。
春の準決勝は二松学舎大付(東京)に1対3。夏の準決勝は広島商(広島)に0対1。いずれも打ち崩された記憶はなく、「勝てる」という慢心から自分たちのミスで黒星を喫した試合だった。
「全国で2校だけが争う決勝戦。日本中が注目するその試合で勝つために練習をしてきただけに、その舞台に行くことすらできなかったのは悔しくてたまらなかった」
監督の杉浦との約束も果たせなかった。中京高校に入学した時の、「おまえで全国制覇させてくれ」という恩師の言葉が今も鮮明に残っている。
最高の結末で甲子園を締めくくることはできなかったが、通算10勝3敗、防御率0.79と驚異的な数字を残し、プロ12球団が獲得の意思を示してきた。憧れのプロ野球選手になるにあたって、何も障壁はなかった。そして迎えた1983年11月22日。この日のドラフト会議から、野中の野球人生は大きく揺れ動いていくことになる。
<#2に続く>
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