アスリート万事塞翁が馬BACK NUMBER
「怪物が消えた」児童養護施設に預けられる寸前だった野中徹博は名将と出会い…甲子園で無双した“世代最強投手”がドラフト指名されるまで
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byKatsuro Okazawa/AFLO
posted2023/06/25 11:00
“世代最強投手”と謳われた中京(現・中京大中京)高校時代の野中徹博。甲子園通算で10勝3敗、防御率0.79と驚異的な数字を残した
甲子園のマウンドで行っていた“儀式”
当時の中京高校は、前身の中京商時代を含めると春夏合わせて10回の全国制覇を成し遂げた伝統校だった。野中は1年春からベンチ入りし、秋にはエースとなった。野球を始めて以来、ピッチングのスタイルは常に自己流だった。
高校時代は巨人の江川卓の投球フォームを参考にした。軸足の右膝に土が付くほど重心の低いフォームと、ボールを離す瞬間(リリースポイント)をテレビと雑誌で注意深く観察し、真似をした。伸びのあるストレートは最速148kmと威力を増した。高校時代の江川と同じく、変化球は落差のあるカーブ。それらを駆使して打者を翻弄し、チームは快進撃を続けていく。
しかし、センバツ出場が懸かった東海大会の直前にアクシデントが起きた。学校が管理するマンションで一人暮らしをしていた野中は、沸かし過ぎた風呂のお湯に誤って右足を入れてしまい膝下にやけどを負った。水ぶくれした箇所を包帯で巻き、怪我をしたことは自分の胸の内に収めて東海大会に臨んだ。
「点が取れないチームだったんです。だから自分が無得点に抑えて勝つしかなかった。でも、東海大会でそれが変わったんですよ」
やけどで軸足に力が入らない。静岡学園(静岡)との1回戦では、初回に4点を奪われた。水ぶくれが破れ、ユニホームを血まみれにしながら2回以降を1失点に抑えると、打線が奮起し逆転勝利を引き寄せた。怪我の功名というべきか、それ以来、貧打のチームは強打へと生まれ変わり、東海大会を制してセンバツの切符を手にした。
小学生の頃から「プロ野球選手になること」を目標にしていた怪物右腕にとって、甲子園のマウンドは自分の力をアピールする絶好の機会だった。野中は試合前の投球練習で、ある“儀式”を行っていた。わざと歯を食いしばって力感あるフォームからストレートを手加減して投げる。その後、審判の「プレーボール」の声とともに今度は力みのないフォームから全力投球で投げ込む。「バシッ!」と捕手のミットが音を奏でる。相手打者は手を出せず、観客の「うおおっ!」という歓声が響きわたる。その反応がたまらなく心地よかった。