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「怪物が消えた」児童養護施設に預けられる寸前だった野中徹博は名将と出会い…甲子園で無双した“世代最強投手”がドラフト指名されるまで
text by
田中耕Koh Tanaka
photograph byKatsuro Okazawa/AFLO
posted2023/06/25 11:00
“世代最強投手”と謳われた中京(現・中京大中京)高校時代の野中徹博。甲子園通算で10勝3敗、防御率0.79と驚異的な数字を残した
3年生時の全国中学校軟式野球大会では、地区大会から90イニング無失点の快投でチームを準優勝に導いた。豪快に投げ込むストレートとカーブで相手をねじ伏せる。当時野球に打ち込んでいた高校1年生の私は、テレビでひとつ年下の野中のピッチングを見て「とんでもない怪物が現れたぞ……」と戦慄したことを覚えている。
“消えた怪物”が名門・中京高に入学するまで
一方で小学校を卒業する頃、生まれ故郷の一宮市ではある“騒動”が起きていた。「怪物が消えた」という噂が野球関係者の間で広がっていたのだ。
これは噂ではなく事実だった。少年時代の野中は複雑な家庭環境で育ち、児童養護施設に預けられる寸前だった。最終的に母のもとで生活をすることになり、小学6年生の秋に一宮市を離れ岐阜県美濃加茂市へ引っ越していた。家計は苦しく、野球を続けるために新聞配達のアルバイト代でグラブやスパイクを買っていたという。
中京(現・中京大中京)高校野球部の監督・杉浦藤文は小学校時代から野中の能力に目を付けていたが、当然ながら、当人の複雑な事情については何も知らなかった。「中学に入ったらすぐに活躍するはずだが……」と期待していても、愛知県内の中学から野中の話が一向に聞こえてこない。逸材の行方が気になり、野中の小学校時代の軟式野球チームの関係者を訪ねた。そこで杉浦は“消えた怪物”が岐阜県に引っ越していたことを知ったのだった。
中学1年生のある日、野中は一宮市内で杉浦と対面した。当時、中京高には付属の中学校があったが、すでに休校が決まっていた。
杉浦は野中の家庭の事情を鑑みながら、真剣な表情で語りかけた。
「中学校が存続するならすぐにでも君を呼び寄せたいが、残念ながらそれはできない。だから今いる学校でめげずに頑張ってくれ。高校では必ず一緒に野球をしよう」
自分を認めてくれる大人がいることが、当時の野中には何よりうれしかった。杉浦の言葉を励みに全国大会で準優勝を果たし、30を超える高校から勧誘が届いた。しかし、野中の心は決まっていた。何度も自分の元へ足を運んでくれた杉浦を信頼していた。こうして1981年春、中京高校の門をくぐった。