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中日・平田良介はなぜ、レガースも肘当てもつけず打席に立っていたのか 引退決断した多才な打者が「最後のプロ野球選手」であった2つのこと

posted2023/01/11 11:02

 
中日・平田良介はなぜ、レガースも肘当てもつけず打席に立っていたのか 引退決断した多才な打者が「最後のプロ野球選手」であった2つのこと<Number Web> photograph by JIJI PRESS

ユニフォームを脱ぐ平田。細部にわたるこだわりを持った野球人だった

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小西斗真

小西斗真Toma Konishi

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JIJI PRESS

 まずは平田良介が自身のインスタグラムに綴った、引退報告を引用する。

 34歳という年齢。まだできるという自負。たくさんの葛藤がありました。それでも「ファンの前でもう一度プレーしたい」その想いを胸に、NPBから声がかかることを信じ、練習を続けてきました。(中略)言葉足らずの発言から誤解を招く事もありましたが、自分は、中日ドラゴンズが大好きでプロ野球界に感謝している事を伝えさせて下さい。

競技人生の最後は「中日の平田」で

 10月に中日球団から戦力構想に入っていない旨を告げられた。しかし、家族とも相談の上で「NPBからオファーがあれば」の条件付きで現役続行を決意。以降は同僚を気遣って、誰もいない早朝に球団施設を訪れて練習を続けてきた。年の瀬に引退を決めたのは、待ち望んだオファーがついに届かなかったからだ。「オレはまだやれる」という情熱に対して「平田ならうちのチームにフィットする」という球団が現れなかった。独立リーグでプレーを続けることはできたかもしれないが、それより「中日の平田」で競技人生を終える方を選んだわけだ。

 大阪桐蔭では全国制覇こそならなかったが、通算70本塁打をマーク。甲子園では1試合3本を含む5本塁打と全国のファンに強烈なインパクトを与えた。2005年の高校生ドラフト1巡目指名で中日入団。直前のアジアAAA選手権で一塁に頭から帰塁した際に右肩を亜脱臼し、他球団の評価が下がる中、中日が方針を変えなかったのは、当時の落合博満監督が「鍛えればオレを超える選手になる」と高く買っていたからだと言われる。自身と同じように右方向に強い打球を飛ばす打撃に「今年のドラフトでは一番(の素材)」と惚れ込んでいた。

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