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サムライブルーの原材料BACK NUMBER
「俺にとってナンバーワンだった」引退の田中隼磨にピクシーが電話で伝えたこと…支えになったオシムの言葉「休みから学ぶものはない」
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byJ.LEAGUE
posted2022/12/19 11:03
名古屋グランパス時代、不動の右サイドバックとしてプレーした田中隼磨とストイコビッチ監督。田中の引退表明後にピクシーから電話がかかってきたという
支えになったオシムの言葉
実はイビチャ・オシムからの言葉が支えになっていた。ドイツワールドカップ後に就任した彼の初陣となる国際親善試合、トリニダード・トバゴ戦(2006年8月9日)のメンバーに選ばれた。田中にとって初のA代表。オシムはまず13人を選び、残りは追加招集で選んでいくという斬新な手法を取った。スタートする「オシム殿の13人」に入れたことは誇りだったものの、代表初キャップとなったトリニダード・トバゴ戦以降は出番が訪れなかった。翌月のアジアカップ予選、アウェーのイエメン戦。このときもピッチには立てなかったが、オシムから呼ばれて言葉を掛けられている。
「今までやってきたことを変わらず続けてほしい。たとえ試合に出なくても、どんな言動をしているかは見ているつもりだ。今、出番はないかもしれないが、今の姿勢を続けていくことが大切なんだ」
オシムは自分の姿勢を買ってくれていた。これまでやってきたことは間違いじゃなかったんだと確信を持てた。心身における無尽蔵のタフネスは日々のトレーニングから生み出される。2007年に入ってから日本代表に定着することはなかったものの、走り抜く、戦い抜くための心身の準備を変わらずやっていけるだけの決心がついた。F・マリノスでもグランパスでも、そして2014年に移籍した松本山雅でも。確信を持つことができたから、周りにもはっきりと伝えられる。揺らぐことのない自分の軸を固められた一言にもなった。
「心が折れそうになるくらい厳しく言われましたよ」
休みから学ぶものはない、と語ったのはそのオシムであった。
まさに同感だった。オフでもベタ休みはしない。サッカーに対する真摯すぎるまでの姿勢は2001年にユースから昇格したF・マリノスの先輩たちの影響が多分にあった。
「だって(トップに)上がったとき、日本代表クラスがいっぱいいるこのチームのなかで生き抜いていくには、必死にやっていくほかなかった。特に(川口)能活さんとシュンさん(中村俊輔)は凄かった。サッカーだけに生活のすべてを注いでいましたから。あの人たちがそれくらいやっているのに、自分がそれを下回っていたらどうしようもない。プレーのことでも能活さん、シュンさん、そしてマツさん(松田直樹)たちには心が折れそうになるくらい厳しく言われましたよ。それも僕には大きなモチベーションになりました」
引退を決めると、律儀な彼らしく川口、中村ら先輩たちにも「みなさんのおかげでここまでやれました」と連絡を入れた。