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「俺にとってナンバーワンだった」引退の田中隼磨にピクシーが電話で伝えたこと…支えになったオシムの言葉「休みから学ぶものはない」

posted2022/12/19 11:03

 
「俺にとってナンバーワンだった」引退の田中隼磨にピクシーが電話で伝えたこと…支えになったオシムの言葉「休みから学ぶものはない」<Number Web> photograph by J.LEAGUE

名古屋グランパス時代、不動の右サイドバックとしてプレーした田中隼磨とストイコビッチ監督。田中の引退表明後にピクシーから電話がかかってきたという

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二宮寿朗

二宮寿朗Toshio Ninomiya

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 J3・松本山雅の田中隼磨(40歳)が今季を最後に22年間の現役生活に終止符を打った。横浜F・マリノス、名古屋グランパスではJリーグ制覇を経験し、オシム監督時代の日本代表にも選出。2014年からプレーした松本山雅では松田直樹の背番号「3」を受け継いだ。度重なるケガと手術を経て”不惑”までプレーを続けた熱血漢がプロキャリアを振り返り、影響を与えた3人の恩師について語った。<全2回の後編/前編へ>

ピクシーからの電話

 現役引退を表明した田中隼磨のもとに、海外から一本の電話が入った。カタールワールドカップを直前に控えたセルビア代表監督のドラガン・ストイコビッチからだった。22年に及ぶプロキャリアに終止符を打つと聞いて、大会前にもかかわらずスマートフォンを鳴らしてくれた。

 ひとしきり労いの言葉を掛けてくれた後に、ピクシーはこう言ったという。

「お前のファイティングスピリットは俺にとってナンバーワンだった」

 嬉しすぎて、涙が飛び出そうになった。と同時に、「それ、もっと早く言ってくださいよ」と心のなかでつぶやいた。

 横浜F・マリノスでレギュラーを張っていた彼が名古屋グランパスに移籍したのが2009年シーズン。実はストイコビッチが古巣の監督に就任した1年目の2008年からオファーをもらっており、2年越しのラブコールに応えた形での移籍であった。何より田中には2004年のリーグ優勝経験があったため、強者になるための化学反応を期待されていた。

「岡田(武史)さんのもとで、勝者のメンタリティーとは何たるか、そして個の集団がピッチ上でまとまるにはどうしたらいいかっていうのを学んだし、先輩たちからも教わった。グランパスに入ってみて、もちろん良い部分もたくさんあったんですけど、正直これでは優勝は難しいって思ったんです。選手同士でもっともっと要求していく必要があったので、僕も強く要求しましたよ。優勝するための言動をしようと思いました」

 浮いた存在になったとしても別に構わない。化学反応を起こせないようであれば、自分がここにやって来た意味がないと考えていた。

【次ページ】 ピクシーからは怒られた記憶しかないが…

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