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サムライブルーの原材料BACK NUMBER
「俺にとってナンバーワンだった」引退の田中隼磨にピクシーが電話で伝えたこと…支えになったオシムの言葉「休みから学ぶものはない」
text by
二宮寿朗Toshio Ninomiya
photograph byJ.LEAGUE
posted2022/12/19 11:03
名古屋グランパス時代、不動の右サイドバックとしてプレーした田中隼磨とストイコビッチ監督。田中の引退表明後にピクシーから電話がかかってきたという
南アフリカワールドカップイヤーとなる翌2010年には浦和レッズから田中マルクス闘莉王が加入。チームは首位を走り、不動の右サイドバックもフル回転してクラブ初のJ1制覇に大きく貢献する。
ピクシーからは怒られた記憶しかないが…
三顧の礼で迎えられたはずなのに、ピクシーからは常に怒られた。いや、もはやその記憶しかないくらいだ。
「ハーフタイムに“ハユマ、チェンジフォーミー”ですからね。優勝を決めた試合ですら“何やってんだ。もっといいクロスを上げろ”と言われたくらい。闘莉王やナラさん(楢崎正剛)たちは褒められるのに、そういうときに限って俺の名前は出てこない(笑)。だからあの人を絶対に認めさせようと、何クソという思いで頑張れたところもありました」
怒られてばかりなのだが、スターティングメンバーには必ず入った。ターンオーバーでメンバーを入れ替えても、田中は代わっていない。
評価してもらっているのか、それともそうじゃないのか、指揮官の真意をつかめないでいた。認めさせてやる、という一心がピッチ上のモチベーションを掻き立てていたのは疑いもなかった。
「俺のチームでお前が必要だった」
13年シーズン限りでピクシーの退任が決まると、34試合すべての試合に先発出場した田中もクラブから契約満了を告げられた。まったく予想していなかっただけに、大きなショックを受けた。
退団を指揮官に報告すると、初めて見るくらいの優しげな表情を浮かべていた。
「あのときのことは今でもよく覚えています。ピクシーは“俺がつくるチームにおいてお前が必要だった。この5年間、フィールドプレーヤーでお前が一番試合に出ている。それが答えだ。だから誰よりも厳しく接したし、厳しく要求もした。お前はそこに応えてくれたし、ピッチで返してくれた”と。本当は認めてくれていたんだなって感じると、(契約満了は)悔しかったけど、頑張ってきて良かったなとも思えました」
なぜここまでの強い気持ちを持って、折れることなくピクシーを認めさせられたのか。