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ぶら野球BACK NUMBER
3人退場の大乱闘で指2本骨折、落合博満はホメた“最高の外国人”「やっぱりクロマティになれなかった男たち」巨人助っ人“残念伝説”
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph bySankei Shimbun
posted2022/06/01 17:11
1994年に来日したダン・グラッデン。その年5月11日のヤクルト戦で球史に残る“大乱闘”が起きた
“3人退場の大乱闘”で骨折
94年1月に来日したグラッデンは、宮崎キャンプでナインに積極的に声を掛け、休日には趣味のバスフィッシングを楽しんだ。同僚右腕のジョーンズとは「ボールゲームで運試し」と仲良くパチンコ通い。確かに体力面では全盛期の力はもうないが、精神面では数々の修羅場をくぐってきたベテランの余裕があった。マイ・ブーブークッションを持ち歩き、遠征先のバスでチームメイトに仕掛けてハシャギまわる。かと思えば、日本社会の必需品と聞き、アメリカで作った日本語で書かれたマイ名刺を作り持参。長嶋監督の誕生日にはバラの花を贈った。
自分は世界一を2回も経験して、ベネズエラやプエルトリコ、メキシコなんかでもプレーしたこともある。キャリアの集大成としてここに来た。まだニキビ顔のゴジラ松井に対しては、「アイツはこれからの日本の野球をリードする役目があるんだよ。だから、今の内からオレのすべてを伝え残したい」とその才能に惚れ込み、片言の日本語と英語で走塁や打撃のコツを伝授しようとしたという。
一番を打つグラッデンのファイターぶりが、地上波テレビを通して日本中にとどろいたのが94年5月11日、神宮球場でのヤクルト戦だ。2回表、ヤクルト先発・西村龍次が巨人の村田真一に頭部直撃の死球を与え、担架で運び出されるアクシデント。すると今度は3回裏に巨人・木田優夫が西村の尻にぶつけ返す。騒然とする球場。そして迎えた7回表、再び西村が右打席に入ったグラッデンの顔面付近にブラッシュボールを投げてしまう。
ヘルメットを吹っ飛ばし避ける背番号32。ここで“カリフォルニアの暴れ馬”の闘志に火が付いた。マウンドの西村を威嚇して、止めに入った捕手・中西親志にジャブからの左アッパーを食らわせ両軍揉みくちゃの殴り合いに。結局、グラッデン、西村、中西と当事者は全員退場処分。しかも36歳の助っ人は、出場停止処分12日間と同時に右手親指と左手小指を骨折して長期戦線離脱というあまりに大きな代償を払った。後日、セ・リーグアグリーメントが現代まで続く「頭部・顔面への死球があれば、投手は即退場」と改められたわけだが、いわばケンカ屋グラッデンは球史を変えたのである。94年の成績は98試合で打率.267、15本塁打、37打点、2盗塁と恐ろしく平凡な成績だったが、その数字以上のインパクトを残した助っ人だった。
【5】コトー「宮崎キャンプで“使い物にならない”」
実はメジャー時代もチームメイトと取っ組み合いの喧嘩をして指を骨折していたというグラッデンとコンビを組んだのが、対照的に物静かなイメージのあるヘンリー・コトーだ。
メジャー通算884試合で569安打に130盗塁、年俸1億3000万円の走・攻・守三拍子そろった33歳外野手という前評判での来日だったが、宮崎キャンプ中のフリー打撃では打球が上がらずゴロ連発。オープン戦の拙守に首脳陣からは「あれでは使いものにならない。肩に古傷があるなんて聞いてなかったよ」と弱肩を酷評され、一部の気が早いスポーツ新聞では「解雇」の文字が躍ったほどだった。
だが、開幕すると背番号53は渋い働きを見せる。チームが苦手としていた今中慎二、山本昌(ともに中日)、川口和久(広島)、野村弘樹(横浜)といったリーグを代表するサウスポーたちから快打連発。「三番右翼・松井秀喜、四番一塁・落合博満、五番中堅・コトー」でスタメンに名を連ね、乱闘劇で両手指を骨折したグラッデンの分まで頑張るよと張り切り、オリーブオイルを自慢のスキンヘッドに塗ってケアするチョビ髭の男。