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「頭の中はパニックでした。謝ればいいのかな、とか」中野友加里36歳が今だから語る“バンクーバー五輪代表から落選した日”
posted2022/02/17 17:02
text by
秋山千佳Chika Akiyama
photograph by
Yuki Suenaga
幼いころからオリンピックという舞台を目指してきた中野さんは、バンクーバー五輪の夢が消えた瞬間に何を思ったのか。当時の苦悩と今だから話せる思いを、中野さんが明かす(全3回の2回目/#3に続く)。
――思えばその時期、バンクーバーの代表選考があり、大学院生で修士論文を書き、テレビ局への就職活動までして、いろんなことを同時並行でこなしていたんですね。
中野 後々、佐藤信夫先生の奥様に言われました。「あなたは色々なものに手を出しすぎなのよ。だから一番欲しいものが手に入らないんです」と(笑)。おっしゃるとおりで、私が欲張ってしまったのがいけなかった。
――ただ、中野さんは引退後の歩みも含めて、きっちり人生設計されている印象があります。五輪に行けなかったこと以外は、中野さんの設計通りではないでしょうか?
中野 どうでしょうか(笑)。でも私は計画性をもって生きている人間だとは思います。計画通りにいきたいし、目標を立ててクリアしていくのが人生のモチベーションですね。
母から「五輪選考までの1カ月くらい笑った顔を見なかった」
――そうやって立てた主な目標で、唯一うまくいかなかったのが、あの「0.17点差」の3位となってバンクーバー五輪代表の切符を逃した全日本選手権(2009年12月)で。
中野 バンクーバー……もうしょうがないですよね。もう始まる前から気持ちで負けていたと思います。不安ばかり抱えていたのが試合に出てしまった。オリンピックに行けなかったらこの先はないと思って臨みましたが、早く終わりたい、という焦りもありました。
――スケート人生の最後かもしれないという気持ちが、マイナスに働きましたか。
中野 そうですね。続けるつもりでやれば、もっと気楽に臨めたかもしれないんですけど。付き添ってくれていた母も、腫れ物に触るかのようでした。「五輪選考までの1カ月くらい笑った顔を見なかった」と言われたほど、張り詰めていたらしいです。
――そこまで張り詰めていたのは、プレッシャーからですか?
中野 一番はそうですね。親を五輪へ連れていって恩返ししたい。周囲の期待に応えたい。そして自分に課せられた課題をこなしたい。……そういう色んなプレッシャーを、バカみたいに一人で背負ってしまいました。もうちょっと周りを気にしなければよかった。今でも責任感が強いタイプだとは思いますが、それが悪く出る場面もあって、負荷を掛けすぎてしまうんです。