ぶら野球BACK NUMBER
27年前「最後の完全試合」まで槙原寛己は“悪役”だった…「オハヨ~ナガシマで~す!」あの投球を生んだミスターの直電
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph bySankei Shimbun
posted2021/05/18 11:01
27年前、1994年5月18日。完全試合を達成し、喜ひぶ巨人・槙原寛己。左はサード長嶋一茂
93年、開幕したばかりのサッカーJリーグ人気に押されていたプロ野球界は、大きな転換期を迎えていた。逆指名ドラフトの始まりとFA制度導入である。その93年オフにFA宣言した選手は5名。しかし、球団側はまだFAそのものをあまり理解しておらず、交渉のノウハウもない。『週刊ベースボール』93年11月29日号のFA特集では、「フロントの無策無能が招いた自業自得の結末。巨人崩壊の危機が…」というかなり辛口の記事が確認できる。
「まさか、ウチの選手がFAするとは思わなかった……」
保科昭彦球団代表の「まさか俺がフラれるとは……」的な動揺したコメントが物語るように、超人気球団は待ちの姿勢で、生え抜き選手に具体的な条件提示もなく、落合獲得でポジションを失う駒田徳広に続き、この年自己最多の13勝を挙げた先発3本柱の一角・槙原の流出も確実視されていたのだ。移籍先は出身地の中日が大本命で、「巨人を出されるくらいなら辞める」という選手も多かった80年代とは違い、時代は猛スピードで変わり始めていた。
そこで崖っぷちのジャイアンツが頼ったのは、最後の切り札“長嶋茂雄”である。秋季キャンプで宮崎にいたミスターにSOSを発信し、緊急帰京を要請。11月12日に都内のホテルで槙原の残留交渉というより説得を託したのである。しかし、この時点の槙原は誠意こそ伝わったと語る一方で、今後の他球団との交渉にも前向きな姿勢を崩していない。
「オハヨ~ナガシマで~す!」朝6時の生電話
だが、63年生まれで当時30歳の槙原にとって、やはり国民的スーパースター長嶋茂雄の存在は特別だった。自著『プロ野球 視聴率48.8%のベンチ裏』(ポプラ社)によると、それ以降、朝の6時にミスターから電話が鳴るようになったという。
「オハヨ~ナガシマで~す!」