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27年前「最後の完全試合」まで槙原寛己は“悪役”だった…「オハヨ~ナガシマで~す!」あの投球を生んだミスターの直電 

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中溝康隆

中溝康隆Yasutaka Nakamizo

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photograph bySankei Shimbun

posted2021/05/18 11:01

27年前「最後の完全試合」まで槙原寛己は“悪役”だった…「オハヨ~ナガシマで~す!」あの投球を生んだミスターの直電<Number Web> photograph by Sankei Shimbun

27年前、1994年5月18日。完全試合を達成し、喜ひぶ巨人・槙原寛己。左はサード長嶋一茂

 なんと伝説の男からの思いっきり生電話。挨拶もそこそこに奥さんに代われと言われ、勝手に家族への残留交渉も始まった。あの天下の長嶋さんがなりふり構わず自分を必要だと熱心に誘ってくれている。これまで球団側からの正式な慰留は一度もなかったが、連日のミスター直電で心は決まった。受話器越しに巨人残留を伝える槙原だったが、「ケジメでお前の家に挨拶に行くから」と笑う監督。こうなるともう誰にも止められない。11月21日午後3時、大勢のマスコミを引き連れて、赤いバラの花束片手に槙原家を訪ねるミスターがそこにいた。

 すでに残留は決めていたので交渉も何もない。大勢の取材陣が家の周りを取り囲む喧噪の中で、ふたりは「監督、報道陣といいファンといい、凄い人出ですねぇ」「あぁ、本当にそうだなぁ」なんつって青いシャガールの絵を眺めながら平和にお茶をしたという。

槙原は「ゴネ得」だ

 だが、巨人に残った槙原はここからしばらく週刊誌の標的になる。前年の推定年俸7800万円から1億2000万円への大幅アップに加え、功労金4000万円、3年間のトレード拒否権といった当時としては破格の好条件は生意気で“ゴネ得”と叩かれた。一方で、投手会長の宮本和知は「マキが(複数年契約に)道をつけてくれたことに、僕らも大いに勇気づけられた」と喜び、若手投手は「成績さえあげたら多少強気に出てもいいということですよね」と先輩の背中を追った。今思えば、FA交渉は一種の転職活動で好条件を引き出すのは当然だが、“終身雇用制度”が当たり前の当時はマスコミもFA制度というシステムをあまり理解できていなかったのだろう。

「槙原副作用で長嶋巨人はゴネ得集団に堕した!」(『週刊ポスト』93年12月10日号)、「桑田、原、篠塚らが槙原効果を狙う理不尽!」(『週刊宝石』93年12月16日号)、「落合・松井・槙原は巨人の優勝をダメにする“V逸トリオ”だ」(『週刊現代』94年3月5日号)。

 そんな辛辣な見出しが並ぶ中、槙原は勝負の94年の出だしからつまずく。春季キャンプは右ふくらはぎ痛で出遅れた上に、復帰後すぐに今度は左ヒザ痛でリタイア。チーム投手最高給でありながら、度重なる離脱は自己管理の甘さを指摘された。

完全試合3日前に“ノーゲーム”があった

 開幕投手は“平成の大エース”斎藤雅樹。なんとか間に合わせた槙原は2戦目の先発マウンドに上がり勝利投手となった。運命の分かれ目となったのは、自身3勝1敗で迎えた5月15日の横浜スタジアムでのベイスターズ戦だ。

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