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「心拍数190以上でプレーしていた」世界最高SBマルディーニが語る、攻撃参加の真髄【ドリームチーム選出】 

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バレンティン・パウルッツィ

バレンティン・パウルッツィValentin Pauluzzi

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photograph byMarc Francotte/L’Équipe

posted2021/02/14 17:00

「心拍数190以上でプレーしていた」世界最高SBマルディーニが語る、攻撃参加の真髄【ドリームチーム選出】<Number Web> photograph by Marc Francotte/L’Équipe

ユースからACミラン一筋。7度のスクデッド、CL優勝5回など、キャプテンとして長年にわたりチームに貢献した

マルディーニ アントニオ・カブリーニは手本になった選手のひとりだ。アンドレアス・ブレーメは僕同様に左右どちらの足も使えて、センターバックでリストアップされてもおかしくない。ジュニオールもいろいろなポジションをこなすことができ、相手のマークでも攻撃の構築でもピッチのあらゆる場所で違いを作り出した。その後、彼とはマイアミのビーチサッカーで再会したよ! インテル時代のロベルト・カルロスについては少し説明が必要だろう。守備が弱点と言われていたが決してそんなことはない。1対1で彼を抜くのは簡単ではなかった。オランダ人たちもこのポストで存在感を示した。ルート・クロルはそのひとりだが、僕が彼のナポリと対戦したときはリベロを務めていた。だから左サイドバックの印象はほとんどないんだ。

SBでもCBでもプレーしたが役割はまったく違う

――あなたは左サイドバック以外でも多くプレーしましたが、1位に選ばれたのは守備能力を評価されてのことだと思いますか?

マルディーニ 過剰な謙遜は嫌味なので正直に言うが、僕はセンターバックのリストに加わることもできたと思う。25年の現役生活で、サイドもセンターもプレーした時間はほぼ同じだ。ふたつの異なるキャリアを築いたともいえる。それぞれのポストで長い年月をプレーしたし、役割はまったく異なっていた。

 センターバックにコンバートされたのは1998年だった。つまり10年以上をこのポジションで過ごした。相手のペナルティエリアまで侵入することはほとんどなく、フィニッシュは僕の弱点のひとつだったけれども……。得点の機会を得ても、あまり決められなかった。

――左サイドバックでプレーしはじめたのはいつですか?

マルディーニ ミランの育成センターに入団するときは右ウイングでテストを受けた。3~4年たって右サイドバックのチームメイトが負傷したときに僕がコンバートされて、それがとてもよくフィットした。2年後に16歳でセリエAデビュー(1985年1月20日、対ウディネーゼ戦)を果たしたときも同じポジションで、すべてがあっという間だった。

 ファビオ・カペッロが監督を務めていたミランのユースチーム(U-20)で、僕は相手のマークだけでなく攻撃的な役割も与えられた。ラインディフェンスを敷いていたから、どちらのサイドバックにも同じプレーが求められたんだ。

 次の年にトップチームの左サイドバックのポジションが空いて、リードホルムが僕をコンバートした。特別な技能は求められない。僕は右利きだけれども、左でプレーすることがまったく苦にならなかった。

――左サイドバックとしてのキャリアは、ちょっとした偶然から始まったということですか?

【次ページ】 利き足が逆であることはSBにとってアドバンテージ

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