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久保建英を「《本物の天才》と呼んでいいのか」……エムボマが語る“目を見張る才能”とは
text by
田村修一Shuichi Tamura
photograph byGetty Images/Hideki Sugiyama
posted2020/09/21 11:50
エムボマが「久保建英の現状と可能性」を語った――
彼が加入したのは、リーガで常に上位争いに加わっているチームだ。ヨーロッパカップにも毎シーズンのように出場している。そんなチームで、彼には主軸としての活躍が期待されている。ポジション争いは厳しいが、ライバルを退けてリーガで最低25試合は出場して欲しい。ビジャレアルは今季、ウナイ・エメリを新監督に迎えた。有能な指導者ではあるが、久保にとっては1つの懸念がつきまとう。それはエメリが、PSGでもまたアーセナルでも、若手の起用に積極的ではなかったことだ。だが実績は申し分ない。エメリが彼を成長させるのは間違いないだろう。
「日本人である」自体がすでに“チャンス”
果たして久保にとって、《日本のメッシ》と呼ばれるのはいいことなのだろうか? 才能が認められた選手は、誰もが称賛の言葉と批判の両方を同時に浴びる。久保の場合も、手放しの称賛には懐疑的であるべきかもしれない。《メッシ》ではあるが《日本の》という限定詞がつくことに対して。もちろん彼は、マルコ・ファンバステンよりはずっとメッシに似ている。同じ左利きであるし、体格も大きくない。突破のスピードには目を見張るものがあり、アグレッシブな精神に溢れている。ただ、現時点では、《日本のメッシ》と呼ばれるのは少し割り引いて考えた方がいいかも知れない。
というのも彼が大いなる才能として認知されているのはまだ日本においてのみで、これからより高いレベルを目指さねばならないからだ。日本の皆さんは気づきにくいだろうが、日本人であるのはそれ自体が1つのチャンスだ。成功すれば、さまざまな契約が舞い込んでくる。その後はとても楽な人生を送ることができる。だが、久保にはそんなレベルを目指して欲しくはないし、そこで安閑として欲しくない。《日本の》という限定詞のつかない本物の《メッシ》、本物の《久保建英》になって欲しい。
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