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“白いペレ”が、おらが町に来た!
80年代のセリエA、ジーコ移籍の伝説。
text by
ロベルト・ノタリアニRoberto Notarianni
photograph byL'Equipe
posted2019/08/14 11:30
ウディネーゼにはわずか2シーズンしか在籍しなかったが、“ホワイトペレ”ことジーコは、イタリア中のサッカーファンを魅了したと言われている。
ジーコのためなら国を捨ててもいい、と市民。
クラブはイタリアサッカー協会との力比べに勝利したのだった。
政治的な混乱はほとんど国家レベルにまで及び、ジーコ加入による国中の混迷は数週間も続いた。
街の中心にある9月20日広場は、「ジーコか、それともオーストリアか?」と書かれたプラカードで埋め尽くされた。それはジーコを獲得できないのであれば、フリウリ地方行政府はイタリアという国から離れ、かつて帰属していたオーストリアに再び戻ることすら辞さないという、市民たちの強い意思表示であった。もちろん大げさなもの言いではある。だが彼らはそれだけ本気でジーコを望んでいたのだった。
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すべては1983年春、ウディネーゼの若きスポーツディレクターであったフランコ・ダルチンがブラジルに飛び、ジーコとコンタクトをとったときに始まった。
彼はクラブの会長で、イタリア屈指の家電産業のオーナーでもあるランベルト・マッツァから全権を委任されていた。
マッツァはそれまでにもウディネーゼに希望を与えていた。
1982年にはブラジル代表DFのエジーニョを獲得。さらなるブラジル人スターを求めて、その矛先は当初ジュニオールへと向けられた。だが、彼とダルチンの関心は、あるブラジル人代理人(ジウリオドリ)の仲介を経て“白いペレ”獲得の可能性へと変わっていったのだった。
弱小地方クラブが、なぜスター選手を獲得?
マッツァは当時のイタリア産業界の風雲児であった。
マネジメントやマーケティング、財政規模などにおいて彼は革新的だった。彼はダルチンに60億リラ(現在の約940万ユーロ。日本円にして約12億円)を託し、6月1日にはジーコが所属するフラメンゴとの合意に達した。さらに1週間後には、ジーコ本人がウディネーゼに移籍することを表明した。
イタリアに大きな激震が走った。
いったいウディネーゼのようなクラブが、どうしてそれほどの資金を得ることができたのか?
「われわれが支払ったのは35億リラで、残りはロンドンに本拠を置くグルーピングリミテッド社が、ジーコの肖像権を得ることを条件に資金を負担したんだ」と、ダルチンは事情を説明した。