フランス・フットボール通信BACK NUMBER
ブラジル、最底辺の暮らしから……。
“サッカーの女王”マルタが語る成功譚。
text by
エリック・フロジオEric Frosio
photograph byJerome Prevost/L'Equipe
posted2019/06/13 07:30
北京五輪決勝でのマルタのプレーシーン。銀メダルに終わったが、その圧倒的なテクニックは観衆を魅了した。
神はどうして私に才能を与えたのかと。
――そうはいってもいとこたちと遊びでサッカーに興じるのと、育成組織のあるクラブに入るのは全く別のことでしょう?
「9歳で学校に通いはじめてその機会が得られた。それまでは母が学費を払えなかったから、公立の学校にも行っていなかった。それで10歳のときに学校のフットサルチームに入ったの。
女子はハンドボールのチームしかなくて、興味がなかったしやりたいのはサッカーだった。男子のチームにうまく入ることができたけど、大会に行って耳にしたのはほとんどが否定的な言葉だった。どの大会でも女の子は私だけで、好意的には見られなかった。サッカーは男のスポーツだから、女の子にはやる資格がないと言われるのは悲しかった。『プレーする資格がないのならば、どうすればもっとうまくなれるの?』と叫びたかったし、神はどうして私に才能を与えたのかとも思った。ほとんどの時間、ピッチ上の罵詈雑言に耐えるのに気を使っていたわ」
他チームの反対で大会から追放。
――チームメイトたちはあなたをどう扱っていましたか?
「最初はあまり気にしていなかったけど、だんだんと対戦相手の悪口に感化されるようになった。自分たちが攻撃されているように感じて、私とプレーするのを快く思わないようになった。多くは否定的で、気にしていないのはごく少数だった。
だから私も気を使って、試合前の着替えはトイレの中でしていたし、コーチの指示を聞くのでも、男の子たちが着替え終わるまではロッカーの中に入っていかなかった」
――しかし彼らに認めさせたわけでしょう。
「それは私ひとりではなかったから! そのチームでは(男友達の)ベトと私のふたりで違いを作り出していた。彼は素晴らしい選手でクラッキだった。アラゴアスを離れて別のところでプレーするチャンスもあったのに、家族と別れるのが嫌でどこにも行かなかった。私たちは同時にライバルでもあった。
チームも素晴らしくて参加したほとんどの大会で優勝した。それが他のチームの嫉妬心を煽って……。地方選手権に2年連続で出場した後、あるチームの監督が、女子選手である私が試合に出続けるなら大会をボイコットするといいだした。
登録されていた女の子は私一人だけで、多数派が勝つのは当然だから、私は排斥され出場できなくなった。
それが子供時代の私のもっとも悲しい出来事。
そのころは私も12~3歳になっていて、自分が最もやりたいものを取り上げられてしまったってことを理解していたから」