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ブラジル、最底辺の暮らしから……。
“サッカーの女王”マルタが語る成功譚。 

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エリック・フロジオ

エリック・フロジオEric Frosio

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photograph byJerome Prevost/L'Equipe

posted2019/06/13 07:30

ブラジル、最底辺の暮らしから……。“サッカーの女王”マルタが語る成功譚。<Number Web> photograph by Jerome Prevost/L'Equipe

北京五輪決勝でのマルタのプレーシーン。銀メダルに終わったが、その圧倒的なテクニックは観衆を魅了した。

テストの時、GKに顔面に当てて得点した。

――当時のあなたのプレースタイルはどんなだったのでしょうか?

「とにかく前に行くのが好きで、よく相手を挑発した。特にスピードを利用したプレーが好きだった。俊敏でスピードがあり――今もそうだと思いたいけど――テクニックにも自信があってシュートも悪くはなかったはず(笑)。主に左足を使ってプレーしていたわ。

(「バスコ・ダ・ガマ」での最初の)テストのときは集中していたから誰とも話すことなく、持てる力のすべてを見せたかった。思い出すのは最初にシュートを打ったとき、ボールがGKの顔にぶつかって、そのままゴールの中に倒れこんだことだった。私は小さくて痩せていたから、周囲の女の子たちが私を見て、『この子はいったい誰なの?』と驚いていた。

 チームに入った当初は知り合いがひとりもいなかったから、いつもすみっこでじっとしていた。質問されたときだけ答えてほとんど誰とも話さず、《野生児》ってあだ名をつけられた」

ブラジルより、フランスより、スウェーデン!?

――しかしバスコでの経験は長くは続きませんでした。

「チームに入ってわずか1年半で、会長が女子チームの廃止を決めてしまった。最初のころの月給は400レアル(約90ユーロ)だった。そのわずかな額でリオで暮らしながら、ほんの少しだけれど母に送金もしていた。

 チームが消滅したとき、私はU-20ワールドカップのためにカナダに遠征していた。そのころには選手たちとも仲良くなっていて、そのうちのひとりだったリュドミラが自分のチーム(ベロオリゾンテのクラブチーム「サンタクルス」)に誘ってくれた。スウェーデンへの移籍が決まるまでそこにいたわ」

――スウェーデンにはどういう経緯で行くことになったのでしょうか?

「2003年のアメリカワールドカップ準々決勝でスウェーデンに敗れた(1対2)とき、ウメオIKの会長が私のプレーを見て興味を持ったみたい。それからスウェーデンのテレビ局がアトレチコ・ミネイロのドキュメント番組を撮った際に、私のことも少し取材した。

 スウェーデンのクラブ幹部から電話がきたときは、最初はペテンだと思って相手にしなかった。スウェーデンがどこにあるかも知らなかったし。でも何度も電話があって、彼らが真剣であることがわかり、私も話を聞いて納得することができた」

――今ではスウェーデン国籍も取得しています。

「英語よりスウェーデン語の方が流ちょうに話せるの(笑)。スウェーデン行きを選んだのは人生で2番目に大きな決断だった。そこからトップレベルのアスリートとしての生き方がはじまった。進歩したと思うし、高いレベルのサッカーを経験して、次のステップへと繋げることができた」

【次ページ】 “サッカーの女王”と呼ばれて。

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