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伊東純也のルーツをベルギーで直撃。
「プロの壁を感じたことはなかった」
text by
菊池康平Kohei Kikuchi
photograph byKohei Kikuchi
posted2019/05/04 11:30
ベルギーで取材に応じた伊東純也。「IJ」のニックネームで愛されたレイソル時代のような突破をベルギーで見せてほしい。
中学入学前が「唯一の挫折かな」。
伊東のサッカー歴を紐解くと、中学入学前に1つの分岐点があった。横浜F・マリノスのジュニアユースの入団テストを受けたが、合格できずに横須賀シーガルズでプレーしている。
これは挫折ではないか? 単刀直入に聞いてみると「う~ん、これが唯一の挫折かな」という回答が返ってきた。
高校時代は神奈川県立の逗葉高校でプレー。「公立で家から通えて、サッカーがまあまあ強いから逗葉へ行きました」と穏やかな表情とトーンで当時を回想する。試合には1年生から出ていた。ただチームは全国で名をとどろかすような強豪ではなかった。
「俺が入学する前の年は神奈川県大会の決勝戦まで勝ち上がっていて、強かったんです。でもその後はそこまで勝てずに、高3の9月に選手権の県予選で負けて、高校サッカー生活は終わりました。最後は県予選でベスト32という結果です」
Jリーガーにはなりたいとは思っていた。しかし、全国高校サッカー選手権に出場できなかった選手に対して、Jリーグからのオファーはなかった。
スタイルを変えず大学まで主力。
高校卒業後に神奈川大学へ進むと、ここでも1年生から定位置をつかんだ。
「1~2年の時は関東大学サッカー1部リーグ、3~4年が関東2部。4年生の時に1部に上げて卒業したんです。2トップのシャドー的なポジションでプレーして、3年の時に得点王、4年の時はアシスト王になりました。トップ下のポジションともいえるかな」
ここで自らの武器として、今も代名詞となっているスピードが開花する。足の速さを生かした縦へのドリブルが得意だったが、さらに磨きをかけたのだ。
「大学時代だけでなく、昔からこのプレースタイルは変わらないんです。子供の頃からドリブルばかりしていました。ドリブルが好きだったので、たくさんボールをさわってましたよ。もともと足はある程度、速かったですしね」
伊東は少年時代から一貫して自分の特徴を活かしてきた。サッカーを続けていると、レベルがある程度高い選手でも、監督との相性が合わずに試合に出られなくなることが少なからずある。しかし、どんなチーム、監督でも、試合に出続けてきた。それは伊東の能力が非凡だったからこそだろう。
「高校、大学ともに1年生の時から試合に出られたので、その経験は大きかったです。大きな怪我もなく、コンスタントにずっと試合に出続けていました。順調に来たと言えます」