“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
幼稚園、五輪、森保Jでまた一緒に。
室屋成が南野拓実への引け目を払拭。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byJFA/AFLO
posted2018/09/16 17:00
南野拓実を少し後ろから追う立場だった室屋成。23歳となり、心理的な引け目は、もういらない。
「拓実と自分とは天と地の差」
「拓実は1人で何でもできる。自分とは天と地の差だと思っていた」
小学生にして差を見せられたことを、室屋は素直に認めた。さらに中学2年生で、強烈な現実を突きつけられた。
ある大会でゼッセル熊取ジュニアユースとC大阪U-15が対戦した時のこと。圧倒的な実力差だけでなく、南野にハットトリックを許したのだ。
あまりにも残酷な結果。室屋は「悔しかったし、ショックだった」と同時に、ある感情も芽生えていた。
「大敗したこともそうでしたが、拓実との差がどんどん開く一方だという現実を突きつけられた。でも……現実を目の当たりにしても“もう追いつけない”という感情ではなく、不思議と“負けたくない、追いつきたい”という気持ちが強くなったんです」
それが、並の選手から一流選手への階段を上らせた。
「このまま引き離されるのは嫌だ」
強烈な反骨心が、成長曲線を大きく引き上げたのだ。
プロ入りせず大学進学した理由。
南野の背中を追いかけた結果、名門・青森山田高の目に留まり、大阪を離れて青森に渡った。そこでサイドバックにコンバートされると、才能が開花。高2の時、2人は2011年U-17W杯(メキシコ)で小6以来のチームメイトとなった。
当時、南野はU-17日本代表のエースストライカーとなっていた。一方、室屋はアジア予選すら出場しておらず、文字通りサプライズ選出だった。この大会で日本はグループリーグを無敗で1位通過すると、決勝トーナメント初戦のニュージーランド戦で6-0の圧勝を飾った。5点目は左サイドを突破した室屋が、中央に走り込んだ南野を目掛けてグラウンダーのクロスを送り込み、息のあった連係でゴールネットを揺らしたのだ。
同大会でベスト8に輝いた後、南野はC大阪にトップ昇格。1年目から開幕スタメンを飾るなど、主力級の活躍を見せた。そして室屋はプロではなく明治大学に進んだ。
室屋も高3の時点でプロ1年目から出場できる力を持っていた。筆者は彼が進路で迷っていた時に「高卒からプロでも十分に通用する」と伝えたこともある。実際、J1クラブが熱烈なラブコールを送っていたのだが、彼は進学を決断した。
順風満帆な南野に比べて、足りないものがあったからだ。