Jをめぐる冒険BACK NUMBER
仲介人、社長、実況アナウンサー。
西岡明彦の24時間365日サッカー人生。
posted2018/04/20 10:30
text by
飯尾篤史Atsushi Iio
photograph by
Atsushi Iio
アナウンサーを職業として選ぶ人は、しゃべることが天職だと感じている人ばかりだろうと思っていた。ましてや会社を辞めてフリーランスとなり、サッカーに特化して、その業界を代表する実況者として認識されているような人なら、なおさらだ。
しかし、「DAZN」や「スカパー!」などのサッカー中継でお馴染みの西岡明彦は「しゃべり手になるつもりで会社を辞めたわけではないんですよね」と振り返る。
アナウンサーとしての仕事を軽視しているわけではない。そこには、彼ならではのサッカー愛があった。
広島ホームテレビのアナウンサーを務めていた西岡が退社を決意したのは、入社7年目となる28歳、1998年のことだった。
1年1年が勝負のプロと、サラリーマン。
当時はJリーグの創成期である。広島ホームテレビのJリーグ中継は年間2試合しかなかったが、西岡はサンフレッチェ広島の取材に足を運ぶうちに、サッカーに、Jリーグに、サンフレッチェにのめり込んでいく。
「そのうち選手たちと食事に行くようになり、納会にも呼んでもらったりして。高木(琢也)さんや森保(一)と仲良くさせてもらっていました」
こうして選手との交流を深めていくうちに、西岡はある日、気づいてしまうのだ。彼らと自分との間には、絶対に越えられない一線が引かれているということに。
「彼らは1年1年が勝負のプロ選手ですよね。納会ではチームを去る選手と残る選手が涙を流しながら別れを惜しんでいたりするシビアな世界。だけど、僕はサラリーマンだから、彼らの本当の気持ちは分からない。それで、向こうの世界に行きたいな、彼らの気持ちをもっと理解したいな、って思っちゃったんですよ」
退社の意思を森保に伝えると、「辞めて、どうするの?」と驚かれたが、西岡には考えがあった。
当時、サンフレッチェは専門誌の元記者を広報に迎え入れていたのだ。