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プロ野球PRESSBACK NUMBER
広岡達朗が激怒「ジャイアンツはここまで落ちぶれてしまったのか?」“巨人との大乱闘”でヤクルトナインが覚醒した日「あんなチームに負けてたまるか」
posted2025/12/08 11:05
「ジャイアンツコンプレックスの克服」に力を注いだヤクルト監督時代の広岡達朗
text by

長谷川晶一Shoichi Hasegawa
photograph by
KYODO
入院中の八重樫幸雄が気づいた「変化」
左ひざ内側側副靭帯断裂のため、チームメイトと離れ、試合に出ることができなかった八重樫幸雄は、スポーツ新聞やテレビ中継で戦況を確認していた。冷静な目でチームを見ていると、前年までになかった「勢い」や「強さ」に気がついた。監督就任以来、広岡が掲げ続けた「ジャイアンツコンプレックスの払拭」が目についたのだ。
「広岡さんの言うように、あの頃は確かにジャイアンツコンプレックスがあったと思います。試合する前から相手に呑まれていたし、たとえリードしていても、“どうせ追いつかれるだろう”という感覚がありました。追加点を奪われるたびに、ピッチャーは小さくなって、野手は硬くなってしまう。その結果、やっぱり逆転されてしまう。攻撃していても、硬くなっているから絶好球にも手が出ない。そんな雰囲気は確かにありました」
実際にキャッチャーマスク越しに見るON――王貞治、長嶋茂雄――の存在感は絶大だった。
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ちなみに、1977年9月3日、当時の世界記録となる756号を王が放ったときに、鈴木康二朗とともに八重樫はバッテリーを組んでいる。
「王さんも長嶋さんも、チャンスで打席に入ったときの集中力はすごかった。特に長嶋さんは後ろで何かあっても、決して振り向かずにピッチャーだけを見ていました。対する王さんはどんなときでも常に動じない。そして、本当に選球眼がよかった。あの二人は別格でしたけど、Ⅴ9の頃は一番バッターから、ピッチャーを含めた九番まで息を抜くことができなかった。本当に抜かりのないイヤな打線でした」
ところが、1976年途中に広岡が監督に就任し、1978年に森がコーチとなったことで状況は少しずつ変わっていく。
