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野球クロスロードBACK NUMBER
「末代までの恥」発言で話題に…14年ぶり甲子園にカムバックの“やくざ監督”を変えた「あるキッカケ」 現代は「正面切って突っ張る子がいない。でも…」
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田口元義Genki Taguchi
photograph byJIJI PRESS
posted2025/08/25 11:07
2010年のセンバツでは21世紀枠の代表校に敗れ「末代までの恥」と話し、大炎上した島根・開星高の野々村直通監督。今大会は14年ぶりの甲子園だった
1988年。前身である松江第一の野球部が誕生したと同時に監督となると、5年後の93年夏に甲子園初出場を果たす。
大願の成就は野々村をより前のめりにさせた。
バットのスイングからボールの捕り方、走塁に至るまで、一つひとつのプレーに目を凝らす。「俺の言うことを聞いておけば間違いない」「言うことを聞かんかったら使わんぞ」。昭和にはよくあった監督の絶対君主制を地で進んでいた野々村が言うには、この指導スタイルに変化が訪れたのは、甲子園初出場から5年後の98年あたりだったという。
指導スタイル変化のきっかけは…週刊誌報道?
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「文春砲にやられましてね」
秋の中国大会で島根県勢としては33年ぶりに優勝した開星は、翌年の3月に開幕するセンバツへの出場を当確としていた。
そんな矢先の文春砲。
<スクープ センバツ確定高校と高野連の大罪 「主力2人」は違反選手だった!>
記事によると、他県から転入してきた主力選手2人の手続きに不備があり、大会参加資格の規定に違反しているのではないか――そんな内容だった。これにより開星は、センバツへの出場が消滅したのである。
野々村はこのあたりから「子供たちの好きなようにやらせる流れになっていった」と、“昭和の野球”からの脱却を図ってきたという。しかし、実情はやや異なる。
センバツが消えた不遇の世代でキャプテンを務め、現在は野々村の右腕としてチームを支える、部長の大谷弘一郎の回想はこうだ。
「『俺についてこい』というスタンスがはっきりしていたなかでの、監督と選手の関係性でしたね。ノックも自分で打っていましたし、遠征に行く時も大型バスを自分で運転していましたし、全て自分でやられていました。選手は監督についていくだけでしたね」
圧倒的な求心力を誇る、野々村の親分肌。この事件から9年後の2007年夏、開星は悲願だった甲子園初勝利を手にした。
春夏合わせて5度の出場。ファンからも少しずつ認知されていた開星は、やはり親分が誰よりも異彩を放っていた。角刈りに羽織袴、ティアドロップのサングラス。甲子園の抽選会など公でのスタイルが話題となっていく。
その野々村の個性がさく裂してしまったのが、10年のセンバツである。
初戦で21世紀枠での出場となった和歌山の向陽を相手に、1-2と一歩及ばず敗れたことが、野々村の琴線を激しく揺さぶる。

