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野球クロスロードBACK NUMBER
「末代までの恥」発言で話題に…14年ぶり甲子園にカムバックの“やくざ監督”を変えた「あるキッカケ」 現代は「正面切って突っ張る子がいない。でも…」
text by

田口元義Genki Taguchi
photograph byJIJI PRESS
posted2025/08/25 11:07
2010年のセンバツでは21世紀枠の代表校に敗れ「末代までの恥」と話し、大炎上した島根・開星高の野々村直通監督。今大会は14年ぶりの甲子園だった
「野球をやめたい」「死にたい」「腹を切りたい」。
さらには「21世紀枠に負けたのは末代までの恥」と、あらゆる負の感情を報道陣の前にさらけ出した。
野々村の発言は瞬く間に広がり、世間は騒然とする。学校の電話とホームページにはともに100件以上もの苦情が寄せられたほどで、自身も謝罪会見でセンバツでの不適切発言に頭を下げ、監督の職を降りた。
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思い出させて申し訳ないんですが……と当時のことを切り出すと、本人は「ああ、炎上事件?」と、あっけらかんと反応した。
「絶対にいるんです! コアなファンというのが。『こうだろ』って叫びたい人がいっぱいいるんだけど、時代の流れがあるからね。僕はその人たちのために喋っているんです」
裏表のない野々村だからこそ、翌11年には周囲の嘆願により監督として再びユニフォームを着られたし、この年の夏に甲子園3勝目を挙げることができたに違いない。
甲子園を花道とし監督を退いた野々村は、翌年の3月に定年退職して野球から離れた。
第2の人生は画家として生きると決めていた。得意の似顔絵を中心に筆を走らせ、15年には松江市内に画廊を開設。個展を開くなど「山陰のピカソ」として活動する。
アーティストとしての地盤を固めていた20年、野々村は三度、開星のユニフォームをまとうこととなる。
「人生には旬があると思いますんでね。60で1回、切れたんですごくしんどい。野球部の事情で戻ることになったんだけど、1、2年でいい野球部にしてから次にバトンタッチしようと思っていたら」
監督再任で感じた「令和の新潮流」
令和の高校野球は、野々村の知る「俺についてこい」だけでは統率できなくなっていた。個性を重んじながらも協調性を養わせ、組織を結束させる――そんな風潮だ。
野々村も、そこを敏感に察した。
「正面切って突っ張るようなやつはいなくなった。自分の世界に入って『ネットのほうが正しいんじゃない?』と、指導者や先生の話に聞く耳を持たない子が増えましたよね」
わかっているからこそ、必要以上には刺激しない。練習では選手やコーチ陣の意見にも耳を傾け、「やってみろ」と促す。
ただ、「これだけは譲れない」とばかりに、心は自らの生き様を説く。
「『野球を通じていい学生を作ろう』ということでね、誰に対してもちゃんと挨拶ができたり、マナーのある行動ができたりね。みんなから応援されるチームにしようと」
毎年3月に行われる広島・江田島での合宿が、人を育てる代表的な行事である。
戦時中、広島湾防衛のため旧陸海軍の施設が置かれ、今も遺跡や慰霊碑があるこの地の息吹を感じることによって、野々村は選手たちに豊かな心を育ませようと努める。

