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甲子園の風BACK NUMBER
甲子園「最大の悲劇」サヨナラボークで試合決着…宇部商エースが明かす「SNSあれば反応違ったかも」「当時の映像は見ない」息子も宇部商に進学していた
text by

井上幸太Kota Inoue
photograph byKYODO
posted2025/08/25 11:03
1998年夏の甲子園、ボークで豊田大谷にサヨナラ負け後、球場を去る宇部商・藤田修平
息子も野球を…始めた「きっかけ」
藤田が琉平の手を取りながら、甲子園のバックネット裏に足を踏み入れる。そこは静寂に包まれた高校野球の聖地だった。藤田の回想だ。
「あの日を境に、琉平から『キャッチボールをしたい!』と言ってくることが増えましたね」
私は昨年も藤田親子を取材している。そこで、高校2年生だった琉平に「野球を始めたきっかけ」を尋ねると、こう返された。
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「(野球漫画が原作の)アニメの『MAJOR』の影響ですかね」
琉平は小学3年生から野球を始める。左投げの父とは異なり、右投げだが、始めて間もないころから投手一筋だった。
近年は山口県内にも中学硬式チームが増えつつあるが、「小学校時代からの友達と一緒にプレーしたい」と、地元の中学校の軟式野球部へ。藤田の母校でもある学校だった。
高校の進学先を考えるタイミングになると、親子で相談を交わす時間が増える。藤田は息子に「宇部商に行け」と強制することはなく、こう語りかけた。
「甲子園は目指すべき価値がある場所。甲子園に行くチャンスが5回あって、何回自分がその場にいるか、だぞ」
息子も同じ宇部商に進学
甲子園出場に挑む権利は、1年夏から5度、誰もが持っている。その5度のチャンスのうち、何回甲子園に立てるか、それも試合に出る選手として「その場」に立てるか。強豪私立で勝負することは否定しない。でも、スタンドからではなく、選手として甲子園を経験してほしい。エースとして甲子園に立ち、その経験の価値を知る藤田だから語れる言葉だった。
私立数校からも誘いはあったが、最終的に琉平は宇部商を選んだ。
宇部商の最後の甲子園出場は07年春。夏は、藤田がサヨナラ負け以来に初めて、母校を応援しようと甲子園を訪れた、05年が最後だ。
琉平は野球を始めてから今に至るまで、「サヨナラボークの藤田の息子」として見られ続ける宿命を負っている。
〈つづく〉

