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甲子園の風BACK NUMBER
甲子園「最大の悲劇」サヨナラボークで試合決着…宇部商エースが明かす「SNSあれば反応違ったかも」「当時の映像は見ない」息子も宇部商に進学していた
text by

井上幸太Kota Inoue
photograph byKYODO
posted2025/08/25 11:03
1998年夏の甲子園、ボークで豊田大谷にサヨナラ負け後、球場を去る宇部商・藤田修平
当時は球種などの情報を走者から打者に伝える「サイン伝達」がルールで禁止されておらず、宇部商バッテリーはそれを防ぐためにサインを複雑にした。藤田がダミーのサインに反応したことで起こった挙動でもあった。
ボークが宣告され、三走が生還し、3時間52分に及ぶ激闘は、突如終わりを告げた。100年を超える全国大会の歴史において、ボークで決した試合は、この一戦のみだ。
17歳の華奢なサウスポーは、一瞬にして時の人となった。
「おすすめ動画」に流れてきて…
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あれから27年。盛夏に44歳の誕生日を迎えたばかりの藤田は、今もなお細身で、柔らかい表情も当時を思わせるものがあった。あのシーンを振り返る藤田の語り口は飄々としたものだ。
「嫌な思い出とかではないんです。それも年月が経ったからではなくて、最初から。甲子園が終わって、山口に帰ってから、傷つくようなことを言われたわけでもなかったので。今みたいにSNSがあれば、また違ったと思うんですけどね」
藤田はサヨナラボークについて、ことさらネガティブな感情は示さなかった。ただ、自ら積極的にひけらかすわけでもない。自己紹介で「サヨナラボークの……」などと言うことはないし、自らすすんで当時の映像を見るわけではない。
動画の「おすすめ」欄に、件の試合の映像も表示される。それを見て、嫌な思いが湧くわけではないが、タップすることもない。その温度感が、藤田のスタンスだった。
大学で故障、野球を引退した
高校卒業後、藤田は進学した福岡大でも野球を続けた。左肩の故障もあり、大学4年春が終了した時点で硬式野球の継続を断念。軟式野球部を持つ山口県内の会社に就職した後に結婚し、第1子である琉平を授かった。
多くの野球人がそうであるように、藤田も愛息子に野球を始めてほしいと願った。琉平と野球を結ぶ大きなきっかけとなる出来事が、5歳だった13年の夏に訪れる。作詞家の阿久悠が残した「甲子園の詩」という詩に登場する球児たちのその後の人生を、作家の重松清が追うというテレビ特番が企画された。そこで、詩に登場する一人である藤田との対談が、甲子園球場で行われた。

