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甲子園の風BACK NUMBER
甲子園「最大の悲劇」サヨナラボークで試合決着…宇部商エースが明かす「SNSあれば反応違ったかも」「当時の映像は見ない」息子も宇部商に進学していた
posted2025/08/25 11:03
1998年夏の甲子園、ボークで豊田大谷にサヨナラ負け後、球場を去る宇部商・藤田修平
text by

井上幸太Kota Inoue
photograph by
KYODO
高校野球で今も語り継がれる「敗北」がある。1998年夏の甲子園。宇部商は豊田大谷を相手に、延長15回裏、投手・藤田修平のボークでサヨナラ負けを喫した。あれから27年が経った今年、藤田の息子が同じ宇部商のエースに……。父と息子が取材に応じた。【全2回の1回目/2回目へ】
高校野球は勝者たちの栄光、歓喜の記録であると同時に、その裏で生まれた、敗者たちが紡いだ物語でもある。
甲子園に刻まれた、劇的な負け。その最たるものが、1998年夏に生まれた「サヨナラボーク」ではないだろうか。
「悲劇の決着」どんな試合だった?
その幕切れは、98年夏の2回戦、宇部商と豊田大谷による延長15回の激闘の最終盤に待っていた。
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この試合で注目の的だったのが、豊田大谷のスラッガーである古木克明だった。古木がどんな打撃を見せるかに注目が集まっていた中、宇部商の2年生左腕・藤田修平(以下、藤田)が躍動。豊田大谷の強力打線をかわし、試合は2-2の同点のまま、延長15回に突入した。
15回裏、豊田大谷が無死一、三塁のサヨナラ機を作ると、宇部商バッテリーは満塁策を選択。満塁のピンチで迎えた7番打者に対し、初球ボールの後、左翼線へのファウル、外角高めの直球でハーフスイングを誘い、追い込んだ。
この時点で藤田の球数は210球。211球目に「三振を狙うために、投げると決めていた」内角の直球を投じ、打ち取るイメージははっきりと湧いていた。
なぜボークに…? サイン伝達のウラ側
捕手の上本達之(元西武)のサインを確認し、セットポジションに入ろうとするも、サインを“二度見”するように動きを止めた。この一瞬の動作を球審は見逃さなかった。

